i  「一円玉で五十円ってのは酷じゃないか?」


 その平べったい財布からはまるで何かの手品のように次から次へと硬貨が取り出されていく。朝九時半の盛況なコンビニにおけるそんな悠長な真似への仕打ちは、通常であれば痛烈な棘視線でありそうなものだが、その時彼女の後ろに列を成していた客たちの視線はいっそ暖かいとも言えた。正確に言えば何か生ぬるいという感じだった。
 直径二センチ、重量一グラムのアルミ製の硬貨が五十二枚。彼女当人は数えていたのだろうが傍観者の一人たる俺が数えているわけはなく、そう分かったのはレジにデジタル数字で五十二と表示されたからだ。店内に本来ならできなかったはずの長蛇の列を発生させた同じ職場の同僚、俺のはす向かいの席のA嬢は、ガムか何かであるらしいお買い上げの品を一つそのまま手に持って、レシートも受け取らずに店を出た。

「一円玉で五十円ってのは酷じゃないか?」
 と、俺が彼女に声をかけたのは会社の前を通る県道の歩道、コンビニから歩くこと五十メートルの地点でだった。
「おはようございますN先輩」
 唐突な俺の台詞に動じることなく、ごく普通の挨拶を受けたかのように彼女は普段通りに頭を下げてきた。
「……おはよう」
「先輩もいたんですか」
 こっちが何なんだと思う程の拍子抜けな対応ではあったが、俺の言いたかった内容自体は把握していたらしい。スカートのポケットから件のガムを取り出してくるりと包装を剥がし、俺と自分に一つずつ分けた。よく見るとガムではなくソフトキャンディという奴だったそれは、夏の暑さのためか個別包装の紙が微妙に本体にくっついていて、彼女は紙を剥がすのに少々苦心していたが、二十メートルほど歩く間に何とかその労働を終えて、ややいびつになった直方体を口の中に放り込んだ。
「昔は喜ばれたものですけどね。一円玉が足りなかった頃は」
 ふにふにと丸いほっぺたの奥で咀嚼を行いながら彼女はそう言ってきた。
「一円玉が足りなかった頃って」
 なんだっけ、と問い返すと彼女は真っ直ぐ進行方向を向いて歩いたまま答える。
「平成元年。消費税導入」
「あー」
 そんなこともあったかもしれない。とはいえ、朝のコンビニでのあの所業が歓迎されたかどうかは定かではないが。学生くらいの年代じゃ最早覚えていない歴史上の出来事だろうが、初めて消費税が導入されることになったあの時は、つり銭不足に備えて大なり小なり商店はどこでも一円玉をかき集めたものだった。俺の家も何気に個人商店だったから子供心に覚えている。
「今は亡き祖父は生前、一円とか五円玉とかを溜め込む習性があったんですが、叔父が店長をやってた店の為にその備蓄を大量に放出してあげていました。よく覚えています。クッキー缶やするめいかの瓶に入った一円玉の山」
 懐古の表情の浮かぶ彼女の横顔を見ながら、俺はほんの少しだけ悩んだ。習性って光物を巣に貯めるカラスじゃないんだからという突っ込みとクッキー缶はともかくするめいかの瓶とやらの形態が頭に浮かんでこないんですがという突っ込みは、どちらがこの場に相応しいんだろう。
「これぞ父親の愛ですね」
 そこまで大層なものだろうか。ていうかそんなに重ね重ねボケないでくれ。突っ込みが間に合わねえだろ。
「ちなみに私は十円玉を集める性癖があるんですよ。小学校のとき使っていたおどうぐばこにじゃらじゃらと貯め込んでいます」
「はぁ」
 もはやどう反応していいか分からなくて俺は自分でも気の抜けたと思える返事をした。が、彼女は別段気にした様子もなかった。
「ああ先輩」
「何?」
 ふと思い出したように、彼女は前に向けていた顔をこちらへ向けた。
「知ってます? お店って、二十枚以上同じ硬貨を出されたら断っていいって法律で決まってるんですよ」
「あー、聞いたことあるな」
 何だったか忘れたけど確かにどこかで聞いたことがある。多分テレビだったとは思うけど。……ってそれを知りつつああいうことをしたのかオマエ。
「でも本当に断られたことなんて今迄一度もないですけどね」
 しかも今まで何回やってるんだ。
「どっかの店のマニュアルか何かだっけ? それって」
「違いますってば、法律だって言ったじゃないですか」
「嘘だ、そんな法律あるかよ」
「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律という法律の第七条に記載されています」
「……それは、どこまでが冗談?」
 冗談でも本気でも真顔で言う奴だからたちが悪い。かなり心配になって尋ねた俺にしかし彼女は何も答えずまた前を向いた。その彼女の手が自分の鞄の外側のポケットを探り始める。なんだかんだと喋りつつ、俺達は会社の正門まであと十メートルという所まで来ていた。うちの会社では、門を通る時は顔写真の貼られた通門証を提示しなくちゃならない。
 彼女の言った内容の真偽は気にならなくはないが、調べてみようにも一回では覚えられそうもないしやっぱり冗談だったら恥ずかしいだけなので諦めることにして、俺もナップザックの横手についているポケットのジッパーを開けた。 
「おはようございます」
 俺に言った時と変わらない平静な声で入口の警備員に挨拶しながら、彼女は門をくぐった。

【FIN】


- INDEX -