セツナ的




 ゼンシンでアイシテル。

1.初めてあの人と混ざり合ったのは、夕暮れの美術室

 ほんのりあたたかく室内を照らす夕日が、机に、黒板に、デッサン用の石像に、柔らかな鴇色を投げかけて、黒い影を長く伸ばしていた。
 人のぬくもりそのものを思わせる紅色のベールが、ロッカーにもたれて窓の外を眺めている透(とおる)の頬に触れ、揺れている。その様子を静かに見つめていた咲妃(さき)は、ゆっくりと、透に身を寄せて囁いた。
「先生」
 長く、黒い、艶やかな髪が肩から落ちて、透のスーツにかかる。
 わずかに眉をひそめる透の瞳を、まっすぐに見つめて。
「私を、愛してみない?」
 返事を待たずに、口づけをした。


2.俺の気持ちにもなれと、思わなくもない放課後

 西日が反射して、美術室の窓に、秋空が鮮明に映し出されている。
 校庭を挟んで、対角線上に見えるその窓を睨みながら、菜月は忌々しげにロッカーを蹴りつけた。鈍い音が、教室中に響く。
「何すんだ。壊れるだろう」
「イライラするんだから仕方ないでしょ!」
「だからってロッカーに当たるなよ。はた迷惑な」
 鬱陶しげに顔をしかめ、眺めていたテキストを閉じながら、貴幸が言う。
 正論だとは菜月も思うが、だからといって、それでイライラが収まるというものでもない。
「いつかバレるんだから!」
「まあ、バレるだろうな」
 気のない返事を返しながら、貴幸は椅子から立ち上がり、窓辺に立った。窓を開けると、校庭から、運動部の規則正しいかけ声が響いてくる。
「バレたら、どっちも学校にはいられなくなるんだよ?」
「まあ、いられなくなるだろうな」
 薄紅色に彩られた校舎と、綺麗に並んだ、空を映す窓と。時折響く、バットの金属音。このどこにでもある放課後の風景の中に、どこにでもあるかどうかはわからない関係が、潜んでいる。
「まじめに聞け!」
「何だよ、俺に言うなよそんなこと。心配なら、直接言ってこれば良いだろ」
「直接……っ」
 想像して、菜月は言葉を詰まらせる。
「第三者がどうこう言うことでもないと思うけどね。俺は」
 浮気だろうと、不倫だろうと、片思いだろうと、両思いだろうと。三角だろうが四角だろうが、やりたいやつはやればいい。高校生にもなって、ましてや教師にもなって、その行為の果てに訪れるだろう、ごく近い未来を想像できないのだとしたら、それは、想像できない方が馬鹿なんだろう。貴幸はそう思う。思うのだが、
「どうこう言うに決まってんでしょ! 友達なんだから!」
 肩でそろえた短い髪を激しく揺らして、菜月は断言する。「第三者」に友達も含まれるのかどうか、そこが意見の分かれ目かもしれない。
「……言ってくるっ」
 友達だもの。自分を納得させるように呟いて、その勢いで教室を飛び出そうとする菜月を、貴幸は慌てて引き留めた。
「ちょっと待て。今からは、まずい。たぶん……」
「――っ!」
 さすがに、まずい理由までは言葉にできなかったが、それで菜月も十分に理解したらしく、ギリギリと音がしそうな勢いで奥歯を噛みしめると、大きく息を吐き出し、
「帰るっ」
 ひったくるように机の鞄を取って教室を出ていった。
 その後ろ姿を見送って、貴幸は窓の外に目を向ける。美術教師の笹間(ささま)透は貴幸のクラスの副担任だったりするが、副担任は所詮、副担任でしかなく、生徒に手を出して学校を追い出されようと、さして問題があるようには思えない。菜月の友人である槙本(まきもと)咲妃にしても、貴幸と直接関わり合いのある人物ではなかった。そんな、ただの同級生がどこで何をしようと関係ないし、迷惑になるものでもない。が。
「……なんというか」
 好きな女(しかも悲しいかな、おそらく片思いだ)と二人きりでいるときに、そういう色っぽい現場を想像させられてしまうのは、結構辛い。
(まあ、そのくらいは我慢するさ)
 その上、思いの相手は友人の心配ばかりで、ちっとも貴幸の思いには気づいてくれないのだ。まあ、告白をしたというわけでもなく、常に甘い視線を送っているわけでもない以上、無理もないのかも知れないが。
 それにしたって。
(もう少し、俺がどういう気持ちでそういう話につきあっているのかも、考えてもらいたいよなぁ)
 夕日のベールで隠された美術室の、窓に映った朱色の空を見つめながら。
 貴幸は深くため息をついた。


3.愛は、全身で感じるものと知る

 夕日が、肌にあたたかい。
 言葉もなく、透と唇を会わせていた咲妃は、優しく髪を撫でる大きな掌を感じながら、そう思った。
 初めて体をあわせてから、4度目の、美術室。頬に、首筋に、肩にと、滑るように触れる透の唇は、その夕日と対照的に、ひんやりとしていた。
「槙本……」
 囁くように耳元で呼ばれて、体が小さく震える。
 両手を伸ばし、透の首に腕を絡めると、咲妃は再び、透に口づけをした。やわらかい、けれどもひんやりと冷たい唇が、咲妃に応える。ゆっくりと絡められた舌の感触に、ぞくりと小さな快楽が走る。
 あの日。あの夕暮れの美術室で。咲妃の要求に応えるように、透は優しく咲妃を抱いた。それから時々、こうして、放課後の美術室で肌を合わせる。
 制服の中に忍び込んでくる大きな手が、咲妃の背中を撫でる。くすぐったいような、甘い感触が体中を駆けめぐり、咲妃は小さく息を吐いた。
 透の体温は、咲妃よりも幾分、低いらしい。
 何度か交わるうちに、気づいたことだ。触れられた部分から、自分の体は熱を帯びてゆくのに、透の肌は、いつもひんやりとしている。それが、お互いの、心の温度差のように思えて、咲妃は時折寂しさを覚える。だから尚更、お互いが深く交わって、透の肌が熱を帯びてくると、咲妃は快楽とともに、満ち足りた喜びを覚えた。互いの体温が溶けて混じり合うように、心も体も、溶けて混じってしまえばいい。
 体が潤んでいく。ゆっくりと熱を帯び、透を導く。
 全身を包み、駆け抜ける快楽とともに。咲妃は透との時間に、いつも、永遠を思った。


4.大人にだって、わからないことはある

「じゃあね、先生。愛してるわ」
 かすめるように唇をあわせて、美術室を出ていく咲妃の後ろ姿を見送りながら、透は衣服の乱れを直した。
 空が、燃えるように赤く染まっている。1分と持たない、瞬間の美。何度も目にする色に見えて、空の模様は決して同じではありえない。しばらく窓から空を見上げ、藍色のベールが空の火を消し尽くした頃、透はやっと美術室から外に出た。
 日が沈んだ後の廊下は、冷えるのが早い。
 体の中に潜り込んでくるような冷気に、思わず身震いしながら廊下を歩いていると、前方に人影が見えた。特別教室が並ぶこの階に、日が落ちてから人影が立つのは珍しい。透はわずかに眉をひそめて、その人物を見つめた。
「そのうち、誰かに見つかりますよ」
 廊下の壁にもたれかかり、闇色に沈む階段に向かって、人影が言う。
「何のことだ?」
 動揺することもなく、透がたずねる。校庭を照らすライトの明かりが、人影の輪郭を浮かび上がらせた。
「何とは言いませんけど。というか、別に、肯定されようと否定されようと、やってる事実は変わらないだろうし」
 ね。と、まっすぐに投げかけられた視線に、透は思わず苦笑う。大人びた表情でこちらを見据える生徒は、自分が副担任を務めるクラスの生徒だ。
「有吉貴幸か」
「副担任でも、生徒の名前は覚えてるんですね」
「全部は無理だが。学級委員くらいは覚えてないと問題だろう」
「それもそうかな」
 貴幸はズボンのポケットに両手を突っ込んで、体を壁に預けたまま笑った。何が目的なのだろうかと、透は注意深く貴幸の表情を読む。
「狼狽えたりしない辺りは、さすがだと思いますけど」
「狼狽えるようなことは、何もしてないからな」
「……まあ、良いんですけど」
 ふと視線を床に落とし、貴幸は言葉を切った。階下でひとの足音がする。その足音が遠ざかるのを待って、貴幸は言葉を続けた。
「ただ、どういうつもりなのかな、と思って」
 その行動から、貴幸に、ことを吹聴してまわる気はないのだとわかり、透は無意識に肩の力を抜いた。
「どう、というと?」
「あんたのやってることは、誰がどう見ても、正しいことには思えないんだけど。何か、確信犯的な大義名分があるのか、ってことかな」
「どういう関係だ?」
 誰と、もしくは何と、とは言わなかったが、貴幸には十分に伝わったらしい。
「槙本は、俺の、彼女(だったらいいのにな)の友達」
「そうか」
 冷たい空気は、夜とともに、その存在を強くしてきている。
「実際、俺は別に、どうでもいいと思うんだけど。彼女(にしたいと常々思っている女)が心配してる。あんたのことじゃなくて、槙本のこと」
 寒さゆえか、苛立ちゆえか、貴幸はつま先で廊下を軽く蹴りつける。とん、とん、と、鈍く響く音が、透に答えを促しているようだった。
「正直、俺にもよくわからん」
「ああ?」
 信じられない言葉を聞いた。という顔で、貴幸は透を見据えた。
「あんた、いい年こいた大人でしょ? 言ってること、わかってんの?」
「やっていることは、わかっているつもりだが」
「だったら」
 今にも胸ぐらを掴みかねない勢いで詰め寄ってくる貴幸を、ゆっくりと右手で制して。
「愛してみないかと言われたんだ」
「……それで?」
「普通、言わないだろう、そういうことは」
「……だから?」
「…………」
 口にしようとしている言葉の馬鹿馬鹿しさに、思わず自嘲がこぼれる。
「だから、なんだ」
「救えるものなら、救いたいと思ったんだ」
 教師としてなのか、年長者としてなのか、男としてなのか。それがわからないところではあったが。
 貴幸は心底呆れたという顔をしている。
「やりたかっただけって言われた方が、まだマシだ」
「そうかもしれん」
 沈黙が廊下に落ちる。
「あんた、愛ってなんだかわかってんの?」
「……わからんな」
「わからないのに、救えると思ったのか」
 馬鹿だろう、あんた。
 貴幸はそれだけ言って、階段を下りていく。
「違いない」
 取り残された透は、誰にともなく、呟いた。

 救えると思ったわけではなかった。
 ただ、あまりにも希薄で、刹那的な存在に対して、救いたいと思ったのだ。
 教師として。生徒として。
「欺瞞だな」
 愛していると言われ、愛してくれと言われ、体を求められて、体で応えて。
 はたして、救いなどあるはずもなく。
 愛のことなど、よく分からない。妻を持つ身でありながら。
 
 ひどく疲れた思いで家の扉を開いた透を、笑顔が迎えた。
「おかえりなさい」
 淀んだ罪悪感と、それを洗い流すほどの暖かい感情が、透を包む。
「御飯の前に、お風呂に入っちゃって」
 台所から、食欲をそそる香りを漂わせながら、透の妻が言う。
 そんな妻を、じっと見つめて、透は口を開いた。
「なあ、愛って、なんだと思う?」
 あまりにも唐突な質問に、一瞬だけ首を傾げた妻は、しかしすぐに笑顔で答えた。
「そうね。大切にしたいっていう思いかしら」


5.切ない、刹那、殺な、契な、絶な、窃な、接な、セツナ的

 放課後、掃除の時間が終わる頃、咲妃は透に声をかけられた。
 クラスメートはゴミを捨てに、校舎裏まで行っている。正面入り口前の、校庭と校舎の境目には、今、咲妃と透の二人しかいなかった。
「槙本」
 静かな声に、咲妃が振り返る。
 透の真剣なまなざしに、咲妃は、続く言葉を理解した。
「すまない。俺が、間違っていた」
 謝ることはないのに。と、どこか冷静な部分で咲妃は思う。
「……知ってたわ」
 先生が、私を愛してくれているわけじゃないことくらい、知ってたわ。
 知っていた上で、求めたのだから。何も、謝ることはないのに。
「俺では、槙本を」
「いいの。知ってたわ。ちょっと我が儘を言ってみたかっただけ」
 透が目を伏せた。そして静かに首をふる。
「すまない」
「先生は悪くないわ。本当よ」
 けれども、泣きそうになる自分を感じた。
「さようなら。先生」
 ゆっくりと、透に背を向けて、校舎へと歩き出す。透から見えないところまで、ゆっくりゆっくり歩き、そして、走り出す。
「咲妃っ」
 涙で溢れて歪んで見える校舎から、菜月が走ってきて咲妃を抱きしめた。
 嗚咽だけが、何かを捨てようとしているかのように、咲妃の体からこぼれていく。
 さようなら、先生。
 偽りと知りつつも。それでも。応えてもらえたことが、何よりも嬉しかったのだと。
 咲妃は、言葉にならない声で、何度も繰り返した。


6.愛は、現象ではなくて

「謝るくらいなら、初めから手を出さなきゃいいのよ」
 放課後の教室で、菜月が教卓を蹴飛ばしながら言う。
「まあねぇ」
 本を読みながら、やはりやる気のない声で、貴幸が答えた。
「これだから、男って嫌!」
 吐き捨てるような菜月の言葉に、
「誘惑する女も女だろ」
 貴幸が冷たく言い放つ。
「な、」
 思いがけない貴幸の反応に、言葉を無くした菜月は、しかし、すぐに自分の失言に気づいた。
「……悪かったわ」
「わかっていただければそれで」
 手元の本を閉じて、貴幸は菜月に視線を向ける。
 失言を誤魔化すように、窓を向いている菜月の横顔を、しばらく無言で見つめて。
 愛なんて、やっぱりよくわからない。と、貴幸は思う。
 救いたいと思ったという、透の気持ちも、理解できないでもなかった。
 愛して欲しいと言って、体を求めた咲妃の気持ちも、理解できなくもない。
 咲妃のことを心配して憤っていた菜月の気持ちもよく分かるし、それらの思いが愛ではないなどとは、貴幸にも言いきれないことだった。
 ただ、自分が菜月を好きだということは、誰に言われるまでもなく、正しいとか間違っているとか言われるまでもなく、真実だと思う。
 それが愛とは言わないけれど。
「愛、ねぇ」
 何言ってんの、この男。という菜月の視線に、呟いてから後悔しつつ。
 ひとまず、そろそろきちんと告白でもしとくかなぁと、貴幸は思った。


.. ... ... ...END.






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