彼女の知識習得法


 ソフィアに読書の趣味があると知ったのは半年程前のことだ。大陸解放軍従軍中の数少ない娯楽として兵士たちに愛好されていたのは主にカードなどの賭博もといゲーム類だったが、魔術士を中心とする一部に読書を趣味とする者たちがいた。紙束というものは言うまでもなく相当重いものであり、ついでに言えば火にも水にも弱く保管に大変気を使う代物であるので通常考えれば軍隊の携行品としては余り相応しいものではないのだが、主要戦力である魔術士たちの強い希望とあっては軍としても考慮せずにおけるものでもなく(尤も、魔術士たちが魔術書の携行を希望したのは娯楽の為ではなく魔術の研究を進め少しでも戦力の増強に貢献する目的からである)(と彼らは主張している)、何と書物専用の馬車が用意されて運搬されていたのであった。そこに、どさくさ紛れに読書フリークの一般兵士も私物の書物を紛れ込ませていたのは、私物は特別な事情がない限り自身で管理するという軍規に真っ向から違反する行為だったが、特にそれに関してお咎めがあったという話を聞かないのは、軍内で強い発言力を有していたサージェン・ランフォードとソフィア・アリエスがその違反の筆頭格であったからだとまことしやかに囁かれていた。
 読書は、元はサージェンの方の趣味で、そのサージェンと何故か色々な方面で逐一趣味が合致するらしいソフィアが彼の本を借りて読んでいるうちにその道に目覚め、こつこつと自分の蔵書を増やして軍規違反の常習犯化していったそうなのだが、それ故か、ソフィアの読書ジャンルはサージェンのそれと全く同じく恋愛小説が主であった。どうやら自分自身に余り恋愛経験がない割にたまに耳年増な所があったり、そうかと思えば概念的なことは知っていても詳細については曖昧な知識しか持っていなかったり場合によっては全くの無知であったりすることがあるのは、その読書傾向に大いに起因しているらしいことにウィルはソフィアの趣味を知ってしばらくしてから気がついた。彼女は、恋愛小説の中でも、貴族の令嬢と出入りの商家の息子との身分違いの恋やら敵国の王子と王女の恋やらをロマンチックに描く少々夢見がちな部類の作品を特に好むようで、そのような彼女や彼女より下の年代を対象として書かれた小説群には実生活に活用できる実践的な記述はどうやら余り含まれていないらしい。
 とはいえそのように多少の偏りはあるものの、小説を恋愛関連のみに留まらず全般的な知識習得の一要素にしているというのは間違いないようで、彼女は知らない単語や貴族社会の描写などについてウィルに質問してくることがままあった。

「ねえウィル」
「ん?」
「しょやけんって分かる?」
「何だって?」
 聞かれた言葉の意味が分からないということは余りないのだが、このとき聞いた単語は耳慣れない発音であったので、ウィルは読むというより眺めていたという表現の方が相応しい雑誌から視線を上げて、ベッドの上で膝を抱え込むようなはたから見ると余り楽そうには見えない体勢で読書をしているソフィアを振り向いた。ソフィアは普段話をするときは人の目をしっかり見てくる方だが、読書中の質問のときは顔を上げないことが多い。多分、その時一番集中しているものを注視する癖があるということなのだろう。
「しょやけん、初めての夜の権利って書くの」
「初夜権……て」
 ソフィアの説明する通り呟きながら、耳にした音を文字に直す。そこでようやく理解して、ウィルは言葉に詰まった。
 知らない言葉ではない。初夜権。古い時代にどこぞの地方の領主が領民の娘の結婚を承認する代わりに花嫁との初夜を花婿よりも先に過ごすことが出来るという決まりを作っていた、とか何とか。そんな話をどこかで聞いたことがある。あるが……
「……なに、とか言われても。そのまんま、初夜の権利だろ」
 と、ウィルは説明になっていない説明をするに留めた。こんなことをありのまま説明すればきっと彼女は、自分で説明を求めたくせに何て破廉恥なことを言うんだとか不条理なことを叫んで逆切れするに決まっている。しかも絶対にこれはソフィアの倫理観念に合わないだろうから怒りもひとしおだろう。自分が悪いわけでもないのに怒られるだなんて割とよくあることではあるが真っ平ごめんである。
 しかしそんなウィルの婉曲な回避に、ソフィアは無邪気に食い下がってきた。
「花嫁の初夜の権利を領主が貰う制度だって。いまいち具体的によくわからないわ」
 何とも困ったことに初夜権以前に初夜という単語が分かっていない。尤もそちらを知っていれば自分が苦手な方面の話題であることには気づくはずだが。基本的に、ソフィアは自分が疑問に思ったことに対しては三歳児にも負けないくらいしつこい。あっさり興味を失うこともないではないが、今回はしつこいパターンのようだ。ウィルがまごまごとしていればそのうち苦手な話題であることに気づくであろうが、気になった以上は怒りながら全部聞いてそれから改めて怒り出すから性質が悪い。
 どうあがいても殴られ確定ですかそうですか。
 悟って、ウィルは覚悟を決めることにした。覚悟ついでに攻勢に出ることにした。回避し得ない問題に直面した場合の対処法としては、蒙る被害を最小に抑えるように防衛するというのが正道であろうが、ことソフィアに関しては生半な防御は通用しない。ならばいっそのこと攻撃に出て彼女をからかった方が面白いというものだ。ウィルは組んだ膝の上に肘を立てて頬杖をつき、口元に薄く笑いを浮かべた。
「新婚の花嫁さんが結婚したその日の夜にすることと言えば?」
「え? んん……? あ、夜ご飯を作る!?」
「嫁さんが初めて作ってくれた手作りの夕飯を領主に食われるってのも中々に腹立ちそうな仕打ちだが違う。っていうか当日の夜は結婚パーティーとかやるもんなんじゃないか?」
 と、少し語尾を濁したのは言いながら、普通はそうでもないのかなと少し思ったからだった。貴族は婚姻から三日三晩パーティー三昧というのも珍しくはない、というのは置いておいて(というかそもそも新妻が料理を作ること自体ないが)、唯一よく知る市民階級である教会魔術士は給金が高く富裕層と言えるから、彼らが殆ど例外なく結婚式の後に祝宴を開いていたからといってそれが市民の当然とは限らないと思ったのだ。
 しかしそれはウィルの考え過ぎだったようで、ソフィアは納得したように頷いた。
「あ、それもそうね。じゃあ、えーと、お風呂に入る?」
「入るだろうけど。その後は?」
「歯を磨く?」
「嫁の初めての歯磨きを領主は一体どうしたいんだ。まあいいや。その後は?」
「ええ? おやすみなさい?」
「そこで健全に睡眠取るなよ」
 ウィルは膝の上の雑誌を脇に避け、座っていたソファーから立ち上がった。その気配にソフィアが顔を上げる。ウィルは、膝を抱えた格好のまま丸く開いた目を向けてくるソフィアの真正面に移動し、そのまま片膝をベッドに乗せて彼女に詰め寄った。
「わっ」
 声を上げて、ソフィアは座ったまま後ずさろうとしたが彼女の背後は壁である。すぐさま行き詰った彼女の横への逃走ルートは右手を壁について遮って、反対側に逃げ出される前に顔を近づけて唇に軽くキス。
「な、何よ脈絡なく……」
 ほんのりと頬を桜色に染めて上目遣いで文句を言ってくる彼女がとても愛おしく、その顔をもっとじっくり見たくなって、ウィルはソフィアのおとがいにそっと手を添え自分の方へと真っ直ぐ向かせた。
 本当に彼女は可愛い。
 顔の作りだけの問題ではなくて、恥らうその仕草や普段は見せない微かな不安に揺らめく瞳やすべらかな頬の熱は……普段から十二分に魅力的な彼女をより一層可憐に飾る。彼女を動揺させることで見れるそんな様子が可愛らしいと思うのは、少し嗜虐趣味気味ではあるかなと思わないでもないが、多分ウィル以外の誰が見たって十人中十人が可愛いと言うだろう。他の男に見せる気などは全くないが。
 ――他の男、という一言を思い浮かべたことで、ソフィアが尋ねてきた先の質問について思考が戻った。もう一度口付けをして、その唇が触れ合うような位置で、囁く。
「愛しい人と念願の所帯を持って、その夜に何もせずにいられると思う? ずっと手に入れたかったものをようやく自分だけのものにできて、そこでおやすみなさいとかいうおあずけに男が耐えられると思う?」
「え、……と」
 ソフィアは、間近で言われた言葉に少し面食らったように目をしばたいてからそれを数秒かけて吟味して、何かに気がついたのか一気に頬の赤みを倍増させた。
「えっ、やっ、そ、それってそういう関連の言葉なの? っていうか、そ、そういう権利を領主が取り上げるってことなの? それって凄く間違ってない?」
「そうだね、古い時代の話だからファビュラスの教えがどの程度浸透していたかは分からないけど、今の倫理観念と照らし合わせてみれば酷い悪習と言えるだろうな。まあその時代の倫理観がどうだろうと、ソフィアを誰か別の男が抱くだなんて絶対に耐え切れないけどね。俺なら」
 勢い込むように言ってソフィアの手を掴み、壁に押し付ける。それと同時に先程よりも深く強く、口付ける。ソフィアは少し狭苦しそうに抱えた格好のままの足を動かしたが幸いその足で蹴り付けてきたりはせず、それ以上の身動きを封じられたような形でされるがままになっていた。開かれた唇の間に舌を滑り込ませて、その中にある彼女の舌に触れる。敏感な所を触られたかのように彼女は過敏に反応し、普段なら有り得ないほどに逃げ腰になるが、逃がしたりなどしない。逃がさない。絶対に。
 ――自分よりも先に、領主が自分の花嫁にこんな真似をするのだとしたら――まず間違いなく自分はその領主を殺しに行くだろう。彼女には指一本、触れさせない。彼女は俺だけのものだ。
 そのまま長く長く口付けをしてやがて惜しみながらも唇を開放するとソフィアは、はう、と音を立てて大きく息継ぎをした。その音でふと我に返る。少し無理矢理過ぎたかもしれない。これは怒らせたかなと思ったが、ソフィアはウィルの目を見つめると、覗き込むように、不安そうなしぐさで首を傾げてみせた。
「ウィル、あの、何か……怒ってる?」
 こちらがそう思っていた所に思いがけず逆にそう尋ねられて、ウィルは意表を突かれた心地で少したじろいだ。
「ん、いや、別に怒ってないけど」
「……けど?」
 更に、あまり深く考えて口にしたわけではない接続詞に続きを求められて言葉に詰まったが、ほんの一瞬考えて思い至る。怒ってはいないけど――自身を突き動かす激しい衝動はあったから、その所為かも知れない。
「……想像するだけで嫌だったから」
 思いの強さをそのまま声にすれば声が嗄れるほどの絶叫になってしまうその言葉を、ウィルは囁くように小さく呟いた。ただ単に分からない言葉の意味を尋ねられたという、日常的とも言えるやり取りであった筈なのに、なんでまたこんなにその一言にのめり込んでしまったんだろう。改めて気づくと少し気恥ずかしい。まるで卑猥な一単語にいちいち興奮する男子学生みたいだ。いや、まあ、みたいというか、実際そんなレベルか自分。
 前髪を手でかきあげて自分へのがっかり感をごまかしていると、ソフィアが安心したようにふっと顔をほころばせて、言った。
「あたしも、いや」
 ――――。
 その表情と、その一言に、一気に感情が再燃し、昂ぶる気持ちの赴くままにさあ今の続きをと彼女に覆いかぶさったら今度は殴られた。……酷い。



- おしまい -

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