彼の体温測定法


 どうやら風邪を引いた、らしい。
「……結構熱あるな。全く、体調悪いならちゃんと言えよ」
 ベッドに入ったソフィアの額にかかる前髪をそっとかき上げて、そこに自分の額をこつんと押し当てて、ウィルは溜息をつくような声でそう呟く。どこか呆れた風な、もしくはやるせない風なウィルの口調にソフィアは頬を膨らませて、すぐ間近にあるダークブラウンの瞳を睨み上げた。
 朝食時に少し喉が痛くて大好きな蜂蜜を沢山かけたパンをいつもの規定量である五枚全部食べきれなかった時に彼女自身も気付いてはいたのだが、何やらどこかで女神様の不興を買ってしまったらしい。食前にもちゃんと一言感謝していたし夜のお祈りもベッドでごろごろしながらではあったが毎日多分欠かさず唱えていたというのに風邪なんて物を授けてくれるなんて全能の女神様は意地悪だ。信徒の強い心を養う為に女神様はしばしば試練と称して意地悪な事をしてくると子供の頃教会の神官のおじさんに聞いた事があったような気はするが(意地悪な事、とは言わなかったかもしれないが)、これもまたそういう類のものなんだろうか。きっぱりと余計なお世話である。
 ソフィアは普段風邪を引いても、動けないほどに具合が悪くならない限りは予定を崩さない事にしている。比較的身体が丈夫な方で風邪を引いてもそれほど重症化する事がなかったのに加え、実家を出てからの数年は彼女の不調に気付くような同行者をあまり持たなかったからであるのだが、今朝ソフィアよりも少し遅れて起きてきたウィルは、終わりかけの朝食の席に着くや否やじっと彼女の顔を覗き込んで眉をきつく寄せたのだ。
「体調悪いだろ」
「は?」
 とぼけるつもりがあった訳でもないのだが朝の挨拶を口にするよりも先に断定的に指摘されて思わず疑問の声が口を飛び出した。何を根拠にそんな事を。多分辛そうになんてしてないし顔色だって悪くないはずだし声だって喋っていないのだから同じだが枯れていない。過去に二、三度程度は体調を崩したまま他の同業者と組んで仕事をこなした事があったが、これまで一度たりとも他人に体調不良を悟られた事などはなかった。だというのにそれを、しかもあろうことか体調については世界で一番心配されたくない相手であるウィルに看破されたことは何となくプライドを傷つけられたような気がして反射的に「そんなことないもん」と返答すると、即座に「馬鹿たれ」という捻りも何もない切返しを受けて無理矢理自室に連行されたのだった。
 席を立って歩いてみると思っていたよりは熱が頭に回っていたようで少しくらくらした。部屋に着くと寝間着に着替えるのも少々億劫で、ソフィアは普段着のままベッドに横になった。どうせ起きて着替えてから数時間しか経っていないんだしまあいいや。枕に後頭部を押し付けて目を閉じるとすうっと目眩は楽になって、別にベッドに入らなくてもいいような気さえしてきた――のだが、ウィルはそんなソフィアを見越してか、毛布を肩までしっかりと覆うようにかけてから、彼女の額にかかる前髪をそっとかき上げてそこに自分の額をこつんと押し当てて、冒頭の文句を洩らしたのだった。
「起きた時はまだ大丈夫だったんだもん」
「あのな。時間が経てば悪化するのは目に見えてるだろ」
 すぐ間近で囁かれるお小言に、ソフィアは唇を尖らせる。ウィルの言っていることは正論で反論の余地は全くないのだが、余地がないからといってソフィアは反論を諦めるような少女ではなかった。
「風邪なんて、ほっとけば勝手に治るものじゃない」
「安静にして放っておけばそうだろうね」
 病気であろうと相変わらずなソフィアに嘆息しつつウィルは額を離して、けれども顔の近さはそのままで彼女を見下ろし――額に触れたのと同じような自然な仕草で今度は唇と唇を触れ合わせた。
「……ウィル」
「何」
 唇を掠らせながら思わずソフィアが唸ると、ウィルは何で文句を言われているのだと言わんばかりに平然と返してくる。
「何ってそれこっちの台詞だから。何してるのよ」
「熱測ってるんだよ。見れば分かるだろ」
「……は?」
 欲望の玩具にされているような気しかしないんですが。ソフィアの疑わしげな視線にウィルはやれやれという風に眉を寄せた。
「あのねソフィア。体表に触れての検温なんて外気温の影響を受けやすくて不正確なものなんだよ。ちゃんと測るとしたら口の中とか、身体の中を使って測るべきなの」
「はぁ」
 科学的には間違っていなさそうな、けれども根本的にはかなり間違っているような気がする説明にソフィアは曖昧な声を漏らす。先の彼の発言について考えている隙にウィルはソフィアの上に上半身を覆い被せるようにして、彼女の顎に手を添えて唇を開かせた。隙間からゆっくりと柔らかい感触が滑り込んでくる。
「ん……っ」
 緩慢な強引さで侵入してくるウィルに抗うことが出来ず、ソフィアはほんの少し息苦しさに顔をしかめながら溜息を漏らした。ソフィアの口内を優しく蹂躙してくる舌は、多分熱の所為なのだろうがいつもより少しだけ冷たい感じがして不覚にも気持ちいいと思ってしまう。
 舌先よりも冷たい指先で不意に頬を撫でられてソフィアはぴくりと身体を震わせた。腕の支えなしに前傾の体勢をとり続けるのは少し辛かったのか、ウィルの手はもう顎からは離されていて、ソフィアの肩のすぐ横に肘をつくような体勢になっている。さわさわとくすぐるようにソフィアの耳や頬を弄ぶウィルの骨ばった右手は左手ほどではないがひんやりとしていて、熱を帯びた肌には心地よい。
 ウィルの唇が今まで触れていた所から離れて掠める程度に頬に触れ、少し下にずらされて首筋に移ろうとする。その直前にソフィアはぽつりと呟いた。
「……で、あとはどこで熱測りたいの?」
「首とか胸とか。あわよくばもっとすごい場所」
「…………もっとすごい場所ってどこよ」
「言っていいの?」
 最初はベッドの端に座っていただけだったはずなのにいつの間にかちゃっかりと彼女の真上に陣取っているウィルを、とりあえずソフィアは毛布の下から蹴り上げた。打ち所が悪かったのか無言でベッド下まで転げ落ちてもんどりうっているウィルに背を向けるように寝返りを打つ。
「病人に対していつまでも馬鹿やってるんじゃないの」
「病人なんだったらそんな抉るような鋭さの蹴りくれてないで安静にしてて下さい……」
 ウィルの言う事はやはりもっともではあったがこの場合は自分の言い分の方がよりもっともであると思ったので、ソフィアはこのまま彼を無視して一眠りすることに決めた。

 結局、その日の夜にはかなり熱も引いていて、次の朝には身体のどこにも全く違和感がない万全の状態で目を覚ます事が出来たのだが――
 代わりにウィルがその日から三日寝込む事になったというのはありがちな余談である。



- おしまい -

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