囁きと言えない言葉と
「ソフィア」
あ、この声。
読んでいた雑誌から目は離さないままで、あたしは後ろにあるウィルの気配に返事した。
「なぁに?」
ぱらり、とめくったページが乾いた音を立てたそのとき。
背中から、湿った暖かい空気と石鹸の香りがのしかかってくる。
ソファーの背もたれの向こうからウィルの腕が伸びてきていて、あたしの肩に顎を置くような感じでぴたりとくっついてきていた。どうも、ウィルはこの体勢が好きらしくて、どこの宿のどこの部屋に泊まったとしても、いつも似たようなことをしてくる。ソファーがないときは、あたしはベッドに座ってたりするから、そこで。でもベッドで……ってのは、正直心臓に悪いから勘弁して欲しい。
「お風呂、行ってきたの?」
「うん」
あたしの首に腕を巻きつかせて、ウィルは頷く。わざわざ麻痺して動かない左腕も右手で持ち上げて、ぎゅっておんぶするみたいに抱きついて。お風呂上りのウィルの左腕は、当たり前だけれど身体と同じくらいにはあったかい。いつもの冷たい感触も全然嫌いじゃないけれど、冬に首筋を触られるっていう条件なら、あったかい方がやっぱりいい。
肩にウィルの顎を乗せたまま、あたしは雑誌のページをめくる。
と、急にウィルがくすくすと笑い出した。
「何?」
「いや、何も言わないなと思って」
「え? ああ……」
そういえば言うのを忘れてたけど。
「あたしまだお風呂入ってないから汚いよ?」
「そうじゃなくってさ」
くすくす。顔を伏せたままのウィルの肩が揺れる。ウィルの前髪から冷たくなったお湯が滴ってきて、ちょっとひやりとする。
「俺がこんなことしたら、いつもソフィア怒るのにさ。いやらしいとか冷たい事言ってさ」
あー。そういう意味か。
確かに、ウィルのやることはいちいち何か、下心があるように思えて、いつもちょっとばっかり厳しいことも言ってるかもしれないけれど。でも。
「抱きついてきたくらいじゃ今迄だって別に何も言わなかったと思うけど。それ以上変なことをしなければ」
抱きつくってくらいなら、いやらしいとは思ってないのよ。友達同士のコミュニケーション? 実際、あたしだってこういう関係になる前はウィルに抱きついてたりしてたじゃない。まあウィルからそうされる場合、抱きつくだけでもなんかちょっと……変な気合がばりばり入ってたりすることも多々あるもんだから、もしかしたら言い返してたかもしれないけれど。
ウィルは、ふうん? という感じで息を漏らした。かすかに笑ってるみたいなのがちょっと怪しい。
「変なことって、例えばこんなこと?」
「ひあっ!?」
ほら来た! ……と思っていた割には、あたしの口からはかなり勢いのいい悲鳴が飛び出した。
顎の触れていた肩口を、いきなりウィルに舐められた。……ちょっと、これは……
「何するのよ!」
すぐ傍にあるウィルの顔をじろりと睨み付けると、全然反省していなさそうな顔で微笑む。……違う、微笑みなんて可愛げのあるものじゃない、これは。にやって感じの、なーんかいやらしい顔。
「何って、ソフィアが煽るからさ」
「煽……誰が!」
「わざわざ言わなきゃやらないのに」
「嘘つき! やるでしょどの道!?」
「あははは。よく分かってるじゃないか」
笑いながらのウィルに、後ろから顎を軽く掴まれて。仰け反らされる。ウィルはあたしの首を解放して、今度は背もたれに腕をついて、上からあたしの唇にキスを落としてくる。
「ソフィア……」
ウィルが囁くあたしの名前。最初に、抱き着いてくる直前にかけてきたのと同じ、いつもとほんのちょっとだけ違う声。普段通りの低い声だけど、少し、掠れているように聞こえる……多分、彼は自分では意識もしてないし気がついてすらいない、あたし以外の誰にも使わない声。
あ、この声……って。そう思うの。いつも。この声を聞くと少しぞくってして……けれどもあたしはその、ぞくっていう感触に気付かない振りをする。それは、ウィルとキスする時に感じるのと同じ感覚だから。キスの合間に囁かれれば二倍、キスしながら、脇腹とか、くすぐったく感じるあたりをウィルの手が触れてたりしたら三倍の速さで、あたしの身体を鋭い何かが駆け抜ける。
痛みのない鋭利さ。締め付けられるような少し苦しい感じもするけど、これは全然嫌な感覚じゃなくって。……ううん、嫌どころじゃない。これは多分、心地よさ。あたしが思うに、ウィルもこの感触の虜になっていて、だからキスとか……したがるんじゃないだろうか。もっと得たい。もっと感じたいと貪欲に。
だから、気付いちゃいけない。こんな気持ちは彼には教えられない。あたしまで歯止めが効かなくなったら――だめだから。
ソファーの背もたれに手を置いて、ウィルはひょいとそれを飛び越えてあたしの隣に来た。わざわざそんなところを越えてこなくったって、ちょっと回ればすぐなのに。まるで一瞬でも離れたくない、っていうみたいに、肌を寄せてくる。……寂しがりの子供かあんたは。
隣同士に座って、上半身だけ向かい合ってキスの続き。背もたれの上であたしの肩に回されるウィルの右手が少し熱い。骨ばった腕に力強く引き寄せられて強く押し付けられるようなキスを貰う。あたしは舌が短いのか不器用なのか、なんだかいつもされるがまま、みたいな感じになるのが少し気に食わない。ウィルだってあたしが初めてだっていうのに、いつもこう。貰ってばっかりじゃだめなのに。そう思うのに敵わない。頬が熱い。息が詰まってくる。ああ……だめだよ、ウィルばっかり。ウィルにも、この感じ、返したいのに、それがもどかしくて、切なくて。いいとかだめとか恥ずかしいとかが全部混ざり合って……頭の中がぐちゃぐちゃになって……
ぺちン!
不意に――
何やら痛そうな音が聞こえてきて。
あたしはそろりと目を開いた。
……何か、やな予感。手のひらがじんじんする。
視線を上げると、目の前のウィルはやっぱりじんじんしているらしきほっぺたを眉根を寄せて撫でていた。
「ソフィアぁ……」
地の底で何かがうめいているみたいな、低ーい声でウィルがぼやく。
またやっちゃった……。いつもいつも我ながら、あー。とは思う……ことは思うんだけど……
でも、これでいいんだ。だって、何て言えばいいのよ。ウィルのキスに朦朧としてました? うっわぁー! 冗談じゃない、言えるわけないじゃない恥ずかしい! これ以上この人が調子に乗ったら対抗しきれないわよ!
胸の辺りにもやもやしてる変な気持ちを握りつぶすように、あたしはちょっとまだよだれが出ちゃってる口を(ああ恥ずかしい)むっと引き締めて目を吊り上げる。と、今迄一方的にあたしを攻め立てていたウィルがびくっと顔を引き攣らせて防御体勢を取った。
「ウィルはぁっ! どーしてこういつもいつもいつもいつもこんなやらしーことばっかりするのかなぁ!?」
「あっ酷!? 今ソフィアだってその気に」
「なってないわよ馬鹿ッ!!」
「う、嘘だぁだって」
「うるさいわよなってないッつってるでしょうこの生きる猥褻物陳列罪ッ!!」
「ひー!? すみませんすみません!?」
備え付けのクッションを振り上げて、必死に逃げようというポーズをとりながら結局逃げないウィルを、ゴキブリ退治でもするかのように何度も何度もひっぱたく。
「あーもうあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければァ!!」
「そんな存在そのものにケチ付けられるようなことしましたか俺ーッ!?」
してるわよ。何言ってるのよこの男は。
そうよ。ウィルさえいなければ。あたしは――
「…………」
「…………ソフィア?」
ぼふん。
「げふぁ」
油断していた顔面にクッションを勢いよろしく降らされて、潰された蛙みたいな声で呻くウィル。
彼がクッションをどけた時には、もうあたしはとっくに背中を向けていた。見てないけど。
何がなんだかわかんないんだろう。ちょっとだけ沈黙の間が開く――けれど、その後に聞こえてきたのは、くすりと笑う、声。ああもう、笑わば笑え。
「ねえ、ソフィア……」
……この声。
もう、だからそれは反則なんだってば。だから答えてあげない。
「愛してるよ」
…………。
……あたしの胸の奥底に、何重にも鍵をかけて閉じ込められてる言葉を、さらっと言ってのけたりする……
「何恥ずかしい台詞さらっと吐いてるのよぉぉッ!?」
「うわグーはやめ痛いごめんなさいごめんなさいっ!!」
ウィル・サードニクスって人の事をあたしが心底凄いと思うのは、こんな時。
- おしまい -