二人の恋愛弁証法
「ウィルは愛と恋の違いって何だと思う?」
……うちのお姫様はまた突拍子もない事を聞いてきやがりましたよ?
夕食後のまったりとしていた時間にけったいな質問を投げかけられて俺は本から顔を上げた。何も予定のない暇な夜は、別にそういう風に取り決めをしたわけではないが、大体二人で黙々と読書大会をすることになっている。俺が点す魔術の明かりを便利がってソフィアも俺の部屋に来て本を読み始めたのが始まりで、歓迎こそすれ拒否する理由は全くないので自然と習慣化した夜の娯楽であった。俺としては折角夜に密室で二人きりならもっと別な娯楽でも楽しみたい所だが、下手にそんな邪な希望を表明すればソフィアの好む別の残虐な娯楽に連れ出されかねないのでごく控えめにしか行わないようにしている。
ともあれ、またいつものように恋愛小説でも読んでいてそんな内容が作中に出てきたのかとでも思って見てみれば、予想に反して今日はソフィアの手元には本はなく、こぶしに握った手を座った膝に置いてやや身を乗り出すようないやに真剣な感じでこっちを凝視していた。その姿からは先のご下問がどこから湧いてきたものなのかは分からない。尤も質問の出所が分かった所でそれがそれほど重要な回答のヒントになるわけでもないのだが。
「急にどうしたの」
とりあえず思考時間を稼ぐ意味も兼ねてそう問い返してみると、ソフィアは真っ直ぐ俺の目を見たまま即座に答えた。
「さっきのお夕飯のときにあたし気がついたの」
「何に?」
解答例が既にあるということは下手に自論――いやこんな論題に自論など別に持ってないんだが――を述べる前に、彼女の意見を聞き出すのが最上と判断してそのまま先を促す。というか何の変哲もなかったごく普通の夕飯で一体彼女が恋愛の何に気づいたのかという単純な興味もないでもない。
ソフィアは少し得意げな調子で指を一本立てて、唇を開いた。
「もしね、朝から何も食べてなかったとするじゃない、でも夜ご飯で美味しいレストランに入って好きなものをいくらでも食べていいことになったとするでしょ、そしたらウィルどうする?」
「……腹いっぱい食べる?」
少し慎重になりながらも答えたその回答は幸運なことにソフィアの想定通りだったようで、彼女は深々と頷いて見せた。
「そうよね。まずはお腹が膨れるまでがつがつとかっ喰らうものよね」
「女の子がかっ喰らうとかいう言葉遣いはちょっと」
「かっ喰らうって何だか凄くおいしそうに感じない? それは置いといて。ともかくまずは必死で脇目も振らずお腹を満たすことに専念するわよね。あたし、そういう状態って恋と似てるんじゃないかなあって思うの」
……どういう意味だ? 眉を顰めるのを寸前で堪えて俺は目をしばたいた。これは俺に対する当てこすりなのか? いつもガツガツ鬱陶しいわねこの肉食獣とやんわり仰ってるわけですか?
しかしその割にはソフィアの視線には非難の色が見えないので、やっぱり単にそう思いついたというだけの話かも知れない。
「はあ。……愛は?」
だからと言って何とコメントすればいいのかよく分からず、ややぞんざいな言い方になってしまったがとにかく先を促してみると、彼女は世紀の大発見をした学者のように言葉に熱を帯びさせて続けた。
「それでね、ひとまずお腹が危機状態を乗り越えて落ち着いたら、残りはちゃんとじっくり味わって噛み締めて食べるじゃない。そういうのってとっても愛っぽいんじゃないかしら。ってことにご飯を噛み締めながら思い至ったの。どう?」
どうとか言われても。
「……今日はよっぽど腹減ってたんだな」
「むー。だからじゃないもんー」
唯一理解できた事を告げてみるとソフィアは不服そうに頬を膨らました。そんな顔されてもな。っていうか腹減ってたこと自体は否定しないんだ。
愛や恋なるものが辞書的にどう定義されているものなのかなんてことは知らないが、抑制が効かない強い思いに突き動かされる感情が恋で満足した気分を抱えた穏やかなものが愛という解釈は頷けないでもない。――ただ、飯ならば食べ続けていればそのうち満腹になるだろうが、恋心も満たされればそのうち落ち着くものなんだろうか。求めても欲しても限りを知らない飢え――そんな感情であるように思うのは、単に俺がまだ満たされていない故なのだろうか。
俺がもし彼女の全てを手に入れられたならば――……
「な、何で睨むの?」
ほんの少し怯えたような声で問われて、俺はやや飛躍しかけていた意識を戻した。
「別に睨んでないよ。ちょっと考え事しただけで」
「ウィルって考え事してる時怖い顔と無表情の中間くらいなこと多いわよね。もっと幸せそうに考え事すればいいのに」
なんだそれは。怖い顔と無表情の中間……って単に真顔なのとは違うのか?
「考えてる内容にもよると思うんだけど。それに常ににやにや考え事してたらそっちの方が怖いじゃないか」
「あたしは考え事してるとよく幸せそうだねって褒めてもらえるわよ」
えっそれ褒められてるの。褒められてると本人が思うならいいんだけど。ところでソフィアが幸せそうに考え事をしている顔と考えて真っ先に頭に浮かんだのは、敵をどう始末しようかと舌なめずりしている時のある意味確かに幸せそうな顔だったんだけど、ソフィアを褒めた(?)人は一体彼女のどの顔を見てそう言ったんだろう。いや、うん、重ね重ねですがソフィアが幸せならなんでもいいんだけどね?
「で、何を考えてたの?」
ころりと話を戻してくるソフィアに一瞬ついていけなくて戸惑う。あれ、なんの話だったっけ。……ああそうそう、飯は恋愛。
何を考えていたかは……うーむ。言わない方がよさげだ。
「いつもながらにソフィアの発想力は豊かですなあと」
嘘ではないが全部ではない事を言って茶を濁そうとすると、ソフィアは俺の顔を斜め下からじーっと見つめてきた。
「何」
「何かそれだけじゃないような気がして」
鋭い。でも斜め下から覗き込んだって俺の鼻の穴くらいしか見えないぞ?
全くその鋭さをもう少し、ほんの少しでいいから恋愛の機微を察する方面に発揮させてくれればいいのに。そうすれば真正面からぶつかって俺だけが玉砕する衝突事故ももう少し減るだろうに。
……尤も、気楽な範囲なら衝突だろうと俺にとって彼女とのやり取りは、結局の所どんなものでも大体幸せに分類されてしまうんだけど。ソフィアの例えを借りるならそれも恋心という空腹を満たす食事のひとつだが、我ながら何とも悪食なことだ。
まあいい。悪食であろうとゲテモノであろうと好きな物は好きなのだから仕方がない。
「その理論の正当性を検証するには、実際に試行してみるのが一番ではないかと推察しますが如何でしょうかソフィア教授」
「ふえ?」
完全に油断していたのか妙に気の抜けた疑問の声を発するソフィアに、俺は先程は無表情だか怖い顔だかと言われた顔に精一杯笑顔を作りながら近づいた。彼女の隣に腰を下ろし耳元に顔を寄せてもう少し分かりやすく囁いてやる。
「欲求を満足させる以前と以降の感情の変化って話だろ、それが本当に正しいかどうか調べるなら、試しに一旦満足させてみないとね?」
「わ!? ちょっ、ちょっと待っ、違………………っ……」
伸ばされる俺の手を見て漸くこちらの意図に気づくが物凄く遅い。今更な叫び声を上げる彼女を腕の中に封じ込め、甘い唇を美味しく頂き始める。
どうせ後十秒もしたら殴られた脳天を涙目で抱える羽目になるだろうけど、それまでは、尽きない飢えを満たす食事を楽しもう。
- おしまい -