水の匂いと


 水の匂いというのは、何と甘美なものなのか。
 少女の声のように甘やかで。妙齢の女性のように艶やかで。そして母親の羊水のように穏やかで。
 きっとそれは空想で、豊かすぎる想像で、言うなれば妄想という奴なのかもしれないが……
 そんな事を思いながら、ふと口元を緩める。
 指先を濡らす液体の感触に、ウィルは小さく笑声を発した。
「濡れてるな」
「や……」
 水分にぬらりと照り輝く指を見下ろして囁くと、抗議の声はすぐさま返ってきた。きつく眉を寄せて、すぐ傍の彼の顔を、ソフィアが見つめ返してくる。彼は、ふふ、と声を漏らしつつも、あえて彼女の意志を無視して濡れそぼるそれに指を這わせた。ぴちゃ、と湿った音を鳴らす。
「絞ったら出てきそうだ」
「ちょっ……や、やめてっ」
 慌てた様子で、手を振り払おうとしてくる。無理強いをした所で、悲しいかな、片腕の腕力では彼女に敵いはしないので、ウィルは苦笑しつつ素直に手を放した。
 ――今迄触れていたものは諦める事にして、その代わり、別のものに触れる。
 ウィルが次に触れたのは、白い布地だった。
 彼の指の先にあるものに気付き、ソフィアが目を見開く。
「やっ! だめっ、それはだめっ! お願いっ……」
 先程よりも尚強い抗議の声が響くが、ウィルは構わなかった。指を引っかけて、引き寄せようとする……が、ソフィアが両手でしっかりと掴んで、それを阻んだ。
 純白の……小さく、清潔な布地。
 それは、紛れもなく彼女の下着だった。
 ソフィアの必死の抗いを、ウィルは微笑ましく思ってくすくすと笑う。
「今更恥ずかしがる事なんてないだろ。お互い様じゃないか」
 耳元で囁かれた声に、彼女はより一層赤面した。下着を掴むソフィアの手が僅かに緩む。その隙を、ウィルは見逃さなかった。ぐいと引っ張って、彼女からあっさりとそれを奪い取る。
「やっ……」
 恐らくは意図的なものではないのだろう、不意に漏れ出たらしき艶めかしい声はウィルの心中を掻き乱した。抗議を口にすべく顔を上向けてきたソフィアの唇に口付けを落とす。
 その途端、
 指から滑り落ちた彼女の下着が、床に落ちる。
「……あーっ!」
 それに気付いたソフィアが、ぱっと顔を離して床を見た。木の床に落ちている白い布を確認して、非難がましく細めた目をウィルの方へ向け直した。
「洗い物落とさないでよ、もー! しかもあたしのぱんつ!」
「ぱんつとかきっぱりはっきり言うなよ……色気も何もあったもんじゃないなぁ」
 ウィルのぼやきはさらりと聞き流し、床に落ちた濡れた洗濯物を拾い上げてソフィアは「あーあ」と溜息をついた。それはそのまま、衣服を干しきって空になっていた一つのかごに、ぽいと放り込む。
「邪魔するんなら干すの手伝ってくれなくていいわよ、あっちに行ってなさい」
「悪かったって。もう邪魔しません」
 言って、ウィルはかごの中から別の洗濯物を取り出した。濡れたシャツを振って水気を払い、窓枠のロープにかける。洗い場で、一応絞ってはきているようだったのだが、たまにまだ絞り切れていないものもあったりする。ソフィアという少女は興味がない仕事に対しては結構雑な性格をしている。
 シャツを干すウィルの横で、彼女はウィルの下着をばさばさとやっていた。自分の下着を見られるのはあれだけ大騒ぎするくせに、人の下着は別に構わないらしい。からかい半分でお互い様とは言ってみたが、しかし通常未婚の少女なら、異性の下着を洗うなんてちょっとくらいは躊躇するものではないだろうかとウィルは思う。まあ彼としても楽だし下手に意識されても自分が恥ずかしいだけなのでこれはこれでいいのだが……
「こっちのかご、終わったよ、ソフィア」
「うわ」
 告げながら、物のついでにすぐ傍にあったソフィアの頬に唇を触れさせると、彼女は首を竦めて露骨に顔をしかめた。
「わ、分かったから何かやるたびいちいちキスしないでよ」
「だって、一緒に家事するなんてさ、新婚さんみたいでほら何かいちゃいちゃしたくなるシチュエーションっていうか」
「邪魔。帰れ。あっちいけ。寝言は寝て言え。膝抱えて壁とお喋りしてなさい」
「…………」
「膝ついてうな垂れようと別に構わないけどそのズボンは自分で洗ってよね」
「……………………はい……」

 洗剤の匂いと太陽の匂いと水の匂いと涙の匂いと。
 そんなこんなが入り交じる、なんてことはない晴れた朝の風景。



- おしまい -

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