カミダノミ。
「髪、切ろうかなあ」
実にどうでもよさげに呟かれた欠伸交じりの声を視界の外に聞いて、ソフィアはそれまで目を向けていたタルトケーキから視線を上げた。
その呟きを漏らした本人――ウィルは、食卓における普段の定位置であるソフィアの真正面の席で、肘を突いた腕に茹で過ぎたパスタの如くだらんと寄りかかり、肩から前に持ってきた自分の髪のひと房を指先で鬱陶しそうに弄り回している。
「どうしたの? 失恋でもしたの?」
髪を切る=失恋、というごくごく一般的な図式に当てはめてソフィアがそう問うと、ウィルはなにやら物凄く複雑な苦味を感じたような顔をした。
「君がそういうこと聞くの? ていうか俺失恋したの? 逆に君に聞きたいんだけど」
「ジョークよ。一般論的な」
ウィルの絶妙な表情を鑑賞しながらソフィアはフォークで一口大に分けたケーキを、はむ、と口に運ぶ。濃厚なバターの風味とさくさくとしたタルト生地の歯ざわりが心地良い。ゆっくりとケーキを咀嚼する彼女を見て、ウィルは、はぁー、と大仰に息を吐いて見せた。ソフィアがわざとそうしているわけではないのだが、彼女が冗談を言うときは割と真顔であるらしいので、それを聞く者はそれが冗談であると分かっていてもちょっとした疲労感に苛まれることが多々あるらしい。例に漏れず、ウィルは親指に髪を引っ掛けたままの手で、頭痛でも感じたかのように額を押さえている。
しかしソフィアの視線はがっくりと項垂れるウィルそのものより、その彼の髪の方に移っている。彼の髪はそのように扱っても尚余裕がある程に長かった。ソフィアも腰まである結構なロングヘアだが、ウィルは身長差を抜きにしてもそれよりも更に少し長い。
「折角そんなに伸ばしたのに切っちゃうなんて勿体無いじゃない。ウィル、男のひとにしては髪綺麗だし」
と、ほんの少しだけフォローの気持ちも込めて褒めてみる。しかし男性にとっては髪が綺麗というのはさして嬉しい褒め言葉でもないのか、顔を上げたウィルは気を良くした様子もなく気だるげに毛先を指で弾いた。
「……別に勿体無くはないよ。特に理由があって伸ばしたわけでもないし」
「へぇ、そうなの?」
軽い驚きを覚えてソフィアは問い返した。何の理由もなく伸ばすには無意味に気力がいる長さにまでなっていると思うのだが。
「前々から切ろうかとは思ってたんだけどさ、ほら、前髪は自分で切れても後ろって自分じゃ切りにくいじゃないか。人に切って貰うのも面倒でずっと放っておいたんだけど、よく考えたら長い方がより面倒くさいんじゃないかと最近気づき始めた」
「気づくの遅ッ」
「言うな」
ソフィアの端的な一言にウィルが視線を逸らして抗議する。
「でもまたなんでそんなことに今更急に気づいて……あ、そっかぁ、手動かないと髪洗うのも大変よね」
尋ねながら思いついた一因に、ソフィアが納得して頷くとウィルが補足するように呟く。
「あと髪結わくのが意外と面倒だな、片手だと」
「結んだげよっか?」
「やだ。絶対おもちゃにする気だろ」
「えー。ツインテールとか可愛くない?」
「俺にどういう道を歩めと言うんだ……」
眉間に皺を寄せるウィルの頭の上に愛らしく赤いリボンで結い上げたツインテールを想像してソフィアはにまりとした。あ、本当に可愛いかも。寝てる間とかにやっちゃおうかな。……というソフィアの企みが読めたのかどうかは定かではないが、ウィルの眉間の皺が更に深まる。
「それにしてもウィル、てっきり髪何かの意味があって伸ばしてるんだと思ってた。教会でそういう決まりがあったりするとか、願掛けしてるのかと」
「ファッションとかは考えてくれないんだ……」
「いや、ファッションって伸ばし方でも柄でもないし」
それもそうだけどとウィルは呟きつつもなにやら微妙そうである。今日はいやにウィルが微妙な顔をしっぱなしだが、いつものことと言えばその通りである。テーブルの木目辺りを遠くの方を眺めるような細い目で見つめていたウィルだったが、不意に何かに気づいたようにその目を見開いた。
「……願掛けか。成程、確かに期間はその通りだ」
「え?」
恐らく独り言であったのだろうその呟きの意味が分からずに聞き返すと、ウィルは少し困ったようにも見える、眉を寄せた苦笑を浮かべた。
「思い出してみると、最後にちゃんと散髪したのはヴァレンディアにいた頃でさ。君がローレンシアから来るっていう知らせが来たんで、リュートに身奇麗にしろって言われて髪整えてもらった」
「へぇ……」
と言われてもあの頃の彼は常にきちんとした身なりをしていたのでいつのことだかすらぴんと来ない。いや、今が特段小汚い格好をしているわけでもないのだが。
で、それが願掛けとどう繋がるのかと尋ねようとして、ソフィアは一旦唇を開いたが、声にする直前にそれに気づいた。
「ああ……」
問いかけ代わりに発した接続詞のつもりだった声のその後に、しかし続けるべき言葉を思い浮かべることが出来ず、ソフィアは代わりにケーキを一口分切って、口に運んだ。
――それは多分最後に『彼』に会いに行ったときのことなのだ。
いつも通りの身なりで、いつも通りの笑顔で、暖かく迎えてくれた幼い少年の姿は目を閉じるまでもなく鮮明に脳裏に蘇る。
その日からまもなくして――そしてそれから長いこと、彼は――
「君を見つけてくれるなら神にでも悪魔にでも頼るってくらいに思ってたからねえ。願掛けなんてのをそのとき思いついてれば、もしかしたらそれを理由として切らずにいたかもしれないな」
微妙に濁した内容にソフィアが気づいたことを察したウィルはあまり濁さない言い方に切り替えて、手に取ったコーヒーカップに口をつけた。その口調は至って軽い。彼の中では既に終わったことだからなのと、何よりソフィアの心情を考えての為だ。
だから、ソフィアも軽く答える。
「自分で願掛けとか言っといて何だけどそれはどーかなー。ウィル、女神様にお祈りとかもしなかったでしょう、どうせ」
「そんなことないよ。あの頃は俺も結構信心深かったんだぞ。仕事で教会に立ち寄って祭壇の前を通ったときくらいは祈ったりもしたもんだ」
「わーなんて信仰心の篤い教会魔術士ー」
皮肉を笑顔で言ってやる。しかし、今など食前のお祈りすらしない彼だから、彼にしてはこれでも相当に女神様に縋っていたのかもしれない。
「じゃあ願い事も叶ったしばっさり切っちゃうかな」
と、やはり軽い言葉の延長で言ったウィルにソフィアは唇を尖らせた。
「えー。勿体無いってば」
「だから別に勿体無くは……」
そう言いかけた所で、ウィルは唐突に言葉を切って、その代わりに軽く首を傾げて何かを考えるような表情をする。ソフィアがきょとんとまばたきをしてそれを見ていると、ウィルはふと片方だけ口の端を持ち上げた。
「ふむ。ま、いいか。切らなくても」
「?」
突然の趣旨換えの理由が分からず今度はソフィアが首を傾げると、ウィルはやや皮肉げに見える笑みを、柄でもない無邪気そうに見える笑みに作り変えて、にっこりとして見せた。
「まだ願い事はあるからね。君と……」
テーブルの上に身を乗り出して、ソフィアの耳に唇を近づけて、こそり、と囁かれたその言葉の続きに――
ソフィアの顔が、ぽんと爆ぜた焚き火の色に染まる。
……しかしそれも数秒のことだった。ソフィアはあくまでもあくまでもやさしく微笑みながら、おもむろに立ち上がった。テーブルに手を着いているウィルを見下ろす格好で、手には鋭く尖ったフォーク。ウィルが彼女を見上げる顔にはまだ笑顔が残っているが――どちらかというと強張って表情が変えられないだけのようにも見える。
「さあ切りましょうかすぱっと。いっそのこと首ごと。」
「ああっ物凄く予想通りの反応っ!? ふぉ、フォークじゃ無理、だと思うけどなんか怖いからこっち向けるのやめて!?」
「うふふふふ。食器って意外にいい武器になるのよねー」
フォークに残っていたタルト生地のひと欠片を舌先でちろりと舐め取るソフィアにウィルは何かしらの危機感を感じたのか、ようやく椅子を蹴った。
「俺をフォークで斬首された史上初めての人間にはしないで下さいお願いしますーッ!!」
「うふふふふふふふふふふふ。今宵のフォークは血に飢えているわよー♪」
走り出したウィルの後を逆手に持ったフォークを高らかに掲げてソフィアは追いかける。その二人の背中に宿のおかみさんが、お客さんフォークあとで血糊落として返してくださいね、とのんびりと声をかけた。
- おしまい -