チェリー
「ねーウィルー、見てー」
まるで自分という存在を誇示するかのように足音もやかましく部屋に戻ってきたソフィアに、ベッドにうつぶせに臥せっていたウィルは「んー」とけだるげに顔を上げた。ぱたぱたという足音は耳障りという程ではないが十分に騒々しい。物音の一つも立てずに遺跡を歩み速やかに戦場を駆け、敵の背後に忍び寄ることすらできる筈の彼女なのに、どうしてかなるべく静かに歩いた方がいいはずの宿の廊下などに限っては人一倍賑やかしく駆け抜けてくる。
部屋に戻ってまずはじめに、昼間だというのに早々にベッドに潜っていたウィルに目を留めて、ソフィアはきょとんとまばたきをした。
「何、どうしたの? 体調悪いの?」
「いや、暇だっただけ」
「暇だと布団かぶって寝ちゃうわけ、ウィルって?」
「だってやることもないし」
ウィルの答えを受けてソフィアは眉間に皺を寄せて黙考する。その返答は彼女にとってどうやら少々不可解であったらしい。
が、元来必要もないのに面倒なことを深く考えたりはしない彼女はその思考をまあいいやとでもいうように打ち切って、手に持っていた金属製の半球を意気揚々とウィルと自分の目の前に突き出した。
「何?」
何を慌ててやって来たのか、という問いは彼女のその行動と多少後先になったが、彼女が突き出して来たそれも確かに何?という感じだったので、ウィルはその疑問の言葉を口にしてから、半球――キッチンからそのまま持ってきたらしき大きなボウルの中を覗き込んだ。
「これ、宿のおかみさんにもらったの。食べよう?」
にこにことしながらソフィアが抱えるそれの中では、艶やかに赤い小粒な果実が、小さな山を作っていた。
「チェリー?」
「うん。裏山でなんとなく育ててるんだって」
「……なんとなく?」
「別に世話とか何にもしてないんだけど実がなるんだって言ってた」
「野生かよ」
その割には赤い果実には傷のある物は少なく、表面に残る水滴も手伝ってあたかも宝石粒のような見事な輝きを見せている。チェリーはかなり手のかかる方の果物だと聞いた覚えがウィルにはあるのだが。しかもまだ多少季節外れだ。早生の品種にしても多分まだ少し早い。
しかしながらソフィアにとってはそんなことよりも実物が目の前に実在していることの方が重要であるようで、首を捻るウィルにはそれ以上目もくれず、そそくさとテーブルに運んでソファーに腰を落とした。そしてそのまま折り目正しく真正面に座して、ぱっと手を組み、
「神様おいしそうに育ててくれてありがとうございます。いただきまぁす」
食前の祈りもあっさりと、待ちかねたように早速一粒つまみ上げた。茎の端を持って実を吊り下げ、単純にして完璧な自然の造形美を一瞬で堪能しきり、ぱくりと口へと落とす。
張りのある表面の薄い皮に歯を立てた瞬間水分をたっぷり含んだ実ははぜ割れ、口の中に広がった甘酸っぱい果汁に、ソフィアは両頬を手で包み込むようにして、とろんと顔を緩める。
「んん〜。じゅーしー! 潤うー!」
口の中にその爽やかさを湛えたまま、彼女は率直に感嘆の声を漏らした。
「潤う?」
ニュアンスはよく分かるが物を食べた時の感想としてはどことなく個性的なその声に一言だけ疑問を口にして、けれども特に返答を期待するでもなかったウィルは彼女の隣に腰を下ろしてチェリーの山に手を伸ばした。
「……うん。うまい」
「もうちょっとおいしそうに食べてよー」
一口それを口にしてウィルが漏らした感想に、不服げにソフィアが頬を膨らます。
「そんなんじゃチェリーがかわいそうじゃない」
「かわいそうって……。うまいって言ってるじゃないか」
「うまいってだけなら誰でも言えるでしょ。もっとこう、この感動を臨場感たっぷりに表現できないわけ?」
その指摘に一瞬考えてとりあえず思いつきで述べてみる。
「早春の候ながらこの一口の中には春の気配漂う甘やかな芳香と初夏の予感を思わせる瑞々しさが絶妙にマッチして」
「……やっぱいいや、うまいの一言で」
「わがままな……。お」
もう一粒もらおうと手を伸ばして、引っ張りあげたチェリーは別の実と茎が繋がった奴だった。二つ食べるのとまったく変わりないのだが、何だか得した気分になるのは気の所為だろうか。
「あっ。双子。いいなー」
それを見つけたソフィアがすかさずウィルの手のチェリーに狙いをつけてくる。あっと思った時にはソフィアの人差し指と中指に茎を挟み込まれていて、茎がちぎれるのを危惧して思わず手を離してしまった瞬間にひょいと攫い取られた。
「ソフィアー」
横目で睨んでウィルは抗議の声を上げる。別のものをまた取れば変わりないのだが、何だか損した気分になるのは気の所為だろうか。
「えへへ」
非難の声を受けたソフィアは悪びれもせず子供のように笑って、舌で迎えにいくような形で開けた口の中に二ついっぺんに実を収めた。
(……う)
一瞬――自分が目にしたものを後悔して、ウィルは微かに眉をしかめた。その様子にソフィアは少しきょとんとしてから、あ、と少し恥ずかしそうに口元を押さえる。
「ごめん。ちょっと食べ方汚かった?」
「あ……いやそんなことないけど」
「? ならいいんだけど」
少し不思議そうな表情を残したまま、ソフィアは今度は普通に果実を口に運んでいく。やはり多少の疑問点よりも、目の前の食べ物の方が大事であるらしい。ウィルは内心で胸を撫で下ろした。
食べ方。別段汚くはなかったが……
(何だか非常にやらしかったです。はい)
が、そんなことを下手に告げてはこの純真無垢なお姫様の機嫌を損ねることになりかねない。身体の中に急激に結実した一種のほとぼりから気を逸らしたいが為に何か適当な話題はないものかと模索していると、ふと思い出したように唐突にソフィアが口を開いてきた。
「ねえそういえば、ウィルってチェリーの茎、口の中で結べる?」
「あ、ああ、うん、結べるよ?」
話題を探していた所に先に話しかけられてウィルは思わずどもったが、ソフィアは特にそれは気にせずにぶうと唇を尖らせた。
「ウィルも結べるのかぁ。ちぇー。ずるいのー」
「ずるいって何が。……ソフィアは結べないの?」
「結べないよー。そんなのできるわけないじゃない」
「そんなのって……」
別にたいして難しいことではないと思うのだが。口の中に茎を一本放り込んで、軽く噛んで茎を気持ち柔らかくし、舌と歯で輪を作ってその中に茎の一端を押し込んでから舌をべっと出す。話だけでなく現物を見せられたことで、ソフィアの眉間の皺が更にその深さを増した。できない、と自覚しているにもかかわらず、負けず嫌いの彼女は食べ終えた茎を一本、ウィルと同じように口内に放り込む。難しい顔をして何やら色々口をもごもごと動かしていたが、二分ほどもすると諦めがついたらしく、茎を吐き出した。結べていない。
「ふーん。いいもーん。こんなの出来たって何の役にも立たないもーん」
「いやまあそれはこれ以上なく正論だが」
口中で転がしていた茎の結び目を指でつまんで取り出して、ウィルはがら入れとして持ってきた小鉢の中に捨てた。そこでふと思い出して、新しいチェリーをつまみ上げつつ、呟く。
「あ、でも、立つのかも。役に」
「どんな?」
「チェリーの茎を口で結べるとキスが上手いとか言うじゃないか」
「は!?」
ソフィアは座面から飛び跳ねんばかりに驚いて、ウィルの方に顔を向けた。……ほんの少し、ソフィアが身体を向こう側に逃れさせて距離を取ったのが、ウィルとしては少し悲しい。が、それよりも彼女のそんな反応のおかしさの方が勝って、彼は軽く吹き出した。
「聞いたことなかった? ま、知ってたら君がこんなこと言うわけないか」
言って苦笑するウィルをまばたきすらせずにソフィアは凝視していた。彼女の頬が、チェリーにすら負けない勢いで赤くなっている。そんな彼女と視線を合わせて、さすがにやりにくくなってウィルは前髪を掻きあげて一息吐いた。こちらまで赤面してしまう。
「……あのさー、キスを話題に出しただけでその反応はどうかと」
「だ、だって」
しどろもどろに抗弁しかける姿を見て、ウィルはあれ?と首を捻った。彼女が極度に純情だということは彼も重々承知しているのだが、さすがにここまでではなかったはずだった。それ以上の関係はいまだに持っていないとはいえ、軽い口付けくらいなら挨拶程度に交わせる余裕はある関係までは上り詰めたと彼自身自負があったのだ。もっともそれが恋人として上り詰めたと胸を張れるほどの大きな山であったかどうかは置いておくとして。
ともあれ様子見の意味合いも込めてややうつむき加減ながらも彼の方を向いているソフィアを黙って眺めていると、やがて、彼女は意を決したように真っ赤に火照った顔を上げた。
「あ、あのっ、ウィル」
「何?」
ソフィアが自分の膝の上で固く握り締めているこぶしに本能的に警戒しつつ、ウィルは努めて何気ない口調で問い返した。いつものパターンならあれが顎か頬か頭頂に飛んできてもよさそうだが今回はいつものパターンとは違う様子なので通常通りに対処していいとも思えない。
どう警戒したものか答えを出しあぐねて見ていると、ソフィアは早口に何だかすごいことを訊いてきた。
「あたしもしかしてキス下手かなあっ?」
「はいっ?」
さすがにウィルもそれきり絶句して、ソフィアの顔を呆然と眺めた。ソフィアは赤らめた顔をうつむかせ肩まですぼめて全身で羞恥心に苛まれていることを表現している。
「ええと、」
とウィルは殆ど無意識に呟いて、口元を手で覆った。ええとも何も。何と言えばいいのか。
なすすべもなく二人して恥ずかしいくらいに初々しいカップルの図をしばらく形成し続けて、ウィルは口元の手を下ろした。一瞬、ソフィアがびくりと反応する。――別に何もしないと……も限らないけれど。
「あー……まあ、何ていうか……俺に聞かれても困るんだけど……。俺だって、他に比較対象を知ってるわけじゃないんだし……」
「……ないの?」
「何でそこで問い返すんだ?」
前に彼女が初めての女の子だと確かに言ったはずなのにそんな事を当の彼女に言われたウィルが眉根を寄せると、彼女は視線をさまよわせてためらって、息を吸ってからぽつりと呟いた。
「でも、ウィルって……何か慣れてるし……」
「慣……!? 慣れてないよ、どこが!?」
その言葉とソフィアらしくない声のトーンに驚いて、声をひっくり返して抗弁する。そんな覚えはまったくない。というか多分かなり全般的に初心者の域だと思う。
けれども彼女は眉をきゅっと寄せて何か非常に困ったような顔をしてその考察の理由を告げてくる。
「だって、ええと、ほら。キスのしかたとか、何か最初っから知ってたりしたし」
「しかたって、ディープキス?」
という単語は発音してみると意外に恥ずかしかったということをウィルは初めて知った。聞いている方も恥ずかしかったらしく、慌てたように何度も頷いている。
「あたし、あの、触るだけ……だと思ってたもの」
「触……っ」
「唇。キスって、なんか……ちゅってするだけだと思ってた」
「ちゅ…………」
ソフィアの表現の方に余程どきどきして無意味に反復する。ウィルの、頭というフィルタを通していないほぼ反射的な声にソフィアはもう一度こくりと頷いて、その反動を使うようにして顔を上げた。顔の赤みは変わっていないが、言葉は大分はっきりとさせて呟いてくる。
「だから、ウィル、こういうこと実はしたことあるのかなって」
「な、ないよ。あるわけないだろ。心配しなくてもそんな嘘つかないよ別に」
「じゃあ何で知ってるの?」
「それは……いやあのさ、ほら、学生時代とかに……年代近い友達がいればそりゃ」
「そういうことを話すものなの? 男の人って。方法とか話し合ったりするの?」
どこか衝撃を受けたような口ぶりで彼女は尋ねてくる。
「そ、そんなこと話し合ったりはしないけど、っていうか具体的にどうするとか聞いたわけじゃないし」
「じゃあ自己流ってこと? どうして自己流でちゃんとできるの?」
「自己流も何もー……」
――新手の嫌がらせですか遠まわしな説教ですかどっちですかこれ。
誰かとそういう経験があるのではということを気にしているのかとウィルは最初思ったのだが、どうやらそうでもないのか、疑っている様子もないのに追及が妙に激しい。彼はあーとかうーとかいう意味の無い声でどうにか間を作りながら考えるのと殆ど同時くらいに言葉を紡ぐ。
「えーとだからほら、相手の口の中に舌入れてですね、あー、色々舐めたり絡めあったりなんかして愛撫するのだとゆー知識は確かに人から聞いたことではあるんですけどね、具体的にどう舌を動かすのかとかそういう部分は聞いたことが無かったわけでその点においては確かに自己流とも言えなくもないとは思うんですけれども前述した通り概略は理解していたわけで完全に自己流とまでは」
――しかも何解説し始めてるんですか俺。
自分で自分に激しく突っ込みたい気分だったが、こうでも言わないと「誰に教えてもらったの」→「女の子は初めてなら」→「もしかして同性に手取り足取り実地で」→「慣れてそうな某カイ(自主規制)」→「じゃなかったらリュ(自主規制)」などというような耳にしただけで首を括りたくなりそうな理論展開に持ち込まれる恐れもあると予測したのだ。ウィル自身でもかなり飛躍しているとは思う論理だがここまで派手に飛躍しないことには彼女の先手を打つことなどできはしない。この敵は常に己の遥か前を進行方向すら定めず迷走している相手なのだ。
しかし今回はウィルの捨て身の説明が功を奏したのかソフィアはぷつりと押し黙った。彼の語った内容を吟味するためか何事か声に出ない大きさでぶつぶつと呟いてから、彼女は視線だけ上へ持ち上げる。色気のある上目遣いというべき格好だが恨みがましく睨まれているのと形状としては同じである。
「ねえ、ウィル、あたしどうすればいいのかな」
「はっ?」
その声のいやに深刻な具合にウィルはぎくりとして短く問い返した。何が。この流れで何をそんなにシリアスに切り出して来ようというのですか。彼女の唇の震え一つ、長いまつげが縁取るまぶたの動き一つを逐一確認しながらウィルは次の言葉を待つ。と。
「あたしも、それ……ちょっとは訓練した方がいいのかな? その、自己流……を」
消え入りそうな声で囁かれたそんな言葉を耳にして――
思わず息を吸うことも吐くことも忘れてウィルは思わずそのままかなり勢いよくソファーの上で前のめりに折れ曲がった。
「……何、それ。どういうリアクション?」
とれたてのわかめのように力なくくたばっている青年にソフィアが怪訝そうに問いかけるが、当の青年の方はいまだ頭の中までわかめな状況で人語での問いに答えることが出来ない。ソフィアは無反応なわかめ――もといウィルにやや心配そうな表情を向けながらも黙ってその回復を待っていたが、その目の前でウィルの突っ伏したままの背中がぷるぷると震えてきたのを見てだろう、何事かと腰をかがめて下から覗き込んだ。
「ウィル?」
「ちょっ……ひっ……んで」
ウィルが返せたのはそんな引き攣れた途切れ途切れの声のみで、ソフィアはぎょっとしたように声のトーンを一オクターブくらい跳ね上げた。
「えっ、も、もしかして泣いてる!? 何で!?」
泡を食ったそんな問いかけの声が引き金だった。感情が暴発した。
「違っ……もっ……駄目だっ……あ、ははははははは、何、何それっ、く、訓練って!? 何でそんな大仰な、キスの訓練って何、しかも君がそういうこと言うし!? ははははっよじれる腹よじれるー!」
普段笑わなかったり感情を起伏させることが少なかったりするわけでは決してないが、これほどの馬鹿笑いに陥ったというのは多分十年ぶりとかいうレベルのウィルの稀有な反応に、ソフィアはしばらく唖然としていたが、やがて恥ずかしさを裏返した烈火の如き怒りに顔を燃え上がらせた。
「なっ! 何よ!? 何がそんなにおかしいのよっ! 上手い方法があたしにはわかんないんだもん訓練するしかないでしょ!?」
「いやその訓練ってのがおか、おかしいんだって、せめて練習とかっ、いやっ、練習ってのも何だかなと思うけど……っぷ、く、あはははははっげほ」
慣れない爆笑を吐き出し過ぎて横隔膜が驚いたのか叛乱を起こし始める。子供の頃少し呼吸器が弱くて夜などに偶に咳が止まらなくなって困ることがあったのだがそれがぶり返したような感じで、身体の中の方の器官に軽い痛みを覚える咳の仕方でげほげほごほとむせっていると、ソフィアが怒った顔をしながらも背中を叩いてくれた。少し叩く力が強めで痛いが文句は言わないでおく。
「げほっ……ひー、あー、苦しかった」
「そんなに馬鹿みたいに笑うから」
「おかしいこと言うからだろ、君が」
不覚にも滲んできた涙を手のひらで拭い取りながら、開いている方の目で、半眼で見つめてくる目と視線を合わす。いまだ自分の発言の何がおかしかったのかいまいち理解できていないのだろうか、憮然たる面持ちを続けるソフィアに、ウィルは鼻から息を吐くようにして笑って彼女の亜麻色の髪をくしゃりと撫でた。
そしてそのままそっと彼女の頭の後ろに手を滑らせて自分の方へと引き寄せて、
「それじゃ、お望みの訓練しようか」
笑みを引っ込め、鼻先が触れるくらいの距離で、そう囁きかけた。
焦点も合わせることが出来ずぼんやりとしかその大きな瞳を見つめることが出来ない至近で(頑張ればどうにかはっきりと見えそうだったが頑張ってしかめっ面になるというのも雰囲気ぶち壊しなので)その彼女の目がしばたかれた。まばたきで風を起こしかねないほどの豊かなまつげに彩られた目はピントのぼやけた視界の中でも真っ直ぐで力強い。
唇に多分もう直接かかっているのであろうウィルの吐息の気配に、ソフィアはこの期に及んで逃げ腰になったりはしなかったが、その代わりに少し不機嫌そうに眉をしかめてみせる。
「お望みのって、言い方やだ。あたしがこういうことしたいって言ったみたいじゃない」
「……したいんじゃないの?」
態度はともかくとして台詞は往生際が悪い。
「あたしは、訓練はした方がいいかなって、言っただけで……」
「実戦が一番の訓練って持論じゃなかったっけ?」
「う」
戦闘訓練における自身の方針を引き合いに出されて彼女は少し声を詰まらせた。けれどもどの道、言ってみたかっただけだったのだろう。そっと唇に唇を触れさせると、特にそれ以上文句を重ねられることは無く、そこに込められていた無駄な力が霧散していくのが分かる。
訓練――
その言葉が耳の奥に残っていて、ウィルは頬を笑みの形に軽く持ち上げた。何だかなあ、とは思ったが彼女の所望する通りに自身の訓練も兼ねていつもよりも丁寧に唇をついばむ。訓練も何も、彼女に言った通りウィルも本当に正しいやり方などというものは知らないわけで――まあ大筋では多分そうそう間違ったことはやっていないとは思うが――魔術も剣術もまず最初は的確な技能者が正道をしっかり叩き込んでおくのがよいらしいから、ウィルが相手では彼女にとっても訓練としては不適切なのかもしれないが……
(まあどうでもいいか、そんなの)
当たり前だが彼女と別の誰かをキスさせるというわけにもいかないし、彼女をより気持ちよくさせる(と言うとかなり生々しいが)為には自分もそれなりに正しい訓練をした方が良いのかもしれないが自分が他の誰かとキスするわけにもいかないというのも同じであって。
余り湿り気を帯びない接触にだんだん焦れてきて彼女の下唇を舌で撫ぜて濡らすと彼を迎え入れるように唇の隙間が少し広がる。
誘い込まれるような感覚に、くらくらとしてくる。
押し入りたい。彼女の中に。無理矢理にでも。
――本当に訓練した方がいいかもしれないと、チェリーの張り詰めた皮のような、ほんの少し雨粒を受けただけではじけて中身をさらけ出してしまいそうな理性でウィルはそう思う。やり方はともかくとして心構えの方は多分まだ、一番最初から一歩も進んではいない。何度唇を重ねても消え果てない衝動。いつか、ちゃんとこの一歩が進めるのだろうか。付き合い始めの頃はまだ不慣れで不自然だった口付けがいつしか自然な自分たちの一部になったように。
「ソフィア……」
唇を離して、手を伸ばして、声に出して、囁く。恋人からの声での答えは無かったが、潤んだ大きな瞳がウィルの顔を一秒だけ映してすぐ閉じられる。ウィルは伸ばしていた手を一旦自分の口元に戻してから、ソフィアの耳の辺りから髪を梳くように手を差し入れて顔を引き寄せる。
瑞々しさが、唇に触れる。
「……はむ?」
どこか気の抜けた声を出して、ソフィアは目を開けた。瞳だけが下を……自分の口元あたりを向いている。目だけでそっちを見たって別に見えないとウィルは思うのだが。顔も手ももう既に離したウィルは、少女の反応をほんの少し楽しみにしながら待っていた。もちろん、真正面から彼女の顔を見ているウィルには、彼女が見ようとしている口元に何が挟まっているのかは見えている。
ボウルにまだいくつも残っているチェリーの一粒。
ソフィアは、ウィルに口移しで渡されたおそらく予期しているはずの無かった感触にしばし呆然としたように、口から赤い実を覗かせたままの体勢で固まっていたが、とりあえずそれが何であるかは納得したのかそれを口の中に吸い上げて無言でもくもく食べ始め、種と茎を皿に捨ててから「ごちそうさま」と言った。
「うわぁ、そう来るか。……もっと驚こうよ」
「驚いたわよ普通に。何いきなり」
とてもそうは見えない態度で言うソフィアに、ウィルは少し拍子抜けする。いかにも彼女っぽい変な反応が楽しめると思っていたのに。これはこれで彼女らしくて変ではあるが。
「いや、これがとりあえず俺が今君にあげられる一番うまいキスかなあ、なんて」
「うまい違いだから、それ……」
飲み屋の酔っ払いレベルの駄洒落にめいいっぱい呆れた顔をしてから、ソフィアは堪えきれなくなったようにふわりと笑った。つられて、ウィルも笑みを漏らす。
屈託の無い少女めいた笑顔に充実した満足感を覚えながら、けれどもその一方、内心の隅っこで、はぁー、と長い溜息をついていた。
良かったまた強引な路線に突っ走って行っちゃう所だったよ俺という安堵と、もーいい加減行っちゃえばいいのにあーもう根性無し俺という叱責が半々くらいで混ざり合った思いはこれまでの人生で割合順調に培って来れたポーカーフェイスが功を奏して表には微塵も出ず、ソフィアも多分全く気づいていない。
甘酸っぱい果実で誤魔化した甘酸っぱい思いを胸に秘め、ウィルはもう一度だけ愛する少女の唇に軽く口付けをした。
彼女の唇はやっぱり甘酸っぱかった。
- おしまい -