春の日のトリック


「ウィル」
 耳慣れた声に名を呼ばれて振り向くと、俺のすぐ傍で、愛する少女が伏し目がちに立ち尽くして何やらもじもじとしている姿が目に映った。
「どうした、ソフィア」
 何か悩みでもあるかのようなその様子に目を丸くして、少し腰を屈めて少女の顔を覗き込むと、尚しばしの間逡巡していた様子だった彼女は、不意に意を決したように顔を上げた。それまでの態度とは打って変わって決然とした、睨みつけるかのような勢いの視線が俺を射る。
 その思いがけない迫力に、思わず反射的に身を引きかけた俺だったが、予想を超える事態は更に続いた。目の前の愛しい少女は、逃がすまいとばかりに俺の腕を捕まえ、そのまま肩に手を伸ばし、抱きついてくる。驚く暇も有らばこそ、次の瞬間には、ほんのりと色づいた可愛らしい顔を俺に近づけ、柔らかな唇を俺の口唇に押し付けて来たのだった。
 それは余りにも唐突で、かつ彼女から受ける行為としては希少なものであったので、思わずただ成すがままに受け入れてしまう。名残惜しい感触だけを残して、すぐさま唇は離れてしまうが、まだ眼前に在るその唇が、ささやかに動いてたった一言の言葉を形作った。
「……大好き」
 僅か数音節の言葉が、俺の魂を天空の彼方にまで飛ばす。
「ど、どうしたんだ急に」
 動揺しつつもだらしなくやに下がる顔を制御出来ないのは已む無しと言えるだろう。ソフィアは俺の肩に手を置き瞳を俯かせたまま、羞恥を堪えているのがありありと分かる早口で行為の理由を説明した。
「今日はエイプリルフールっていう日なんだって」
「…………うん?」
 確かに言われてみれば、今日は四月一日、世間一般で俗に言う四月馬鹿の日だ。
 ――って。
 ちょ、ちょっと待て!?……ど、どういう事だそれ!? エイプリルフールだから「大好き」って、おいおいおい! 遥か高く舞い上がった俺の魂に何故にいきなり雷撃の魔術を放つ!? 空中では魔術なしでは回避不可能! 青天の霹靂に弾き飛ばされ俺のハートは絶賛急降下中ですよ!? 母なるミナーヴァの大地に向けて華麗に真っ逆さま!
 突如として無慈悲極まる仕打ちに晒され愕然とする俺の顔を、ソフィアは悪意の全く見えない澄んだ瞳でただただ不思議そうに眺め、きょとんと首を傾げて見せた。
「エイプリルフールっていうのは、悪戯をして人をびっくりさせる日……なのよね? 何か違った?」
 あわや地表に打ち付けられてべちょっと潰れる寸前だった魂が辛うじてぽよんと何かに受け止められる。
「え、ええと……? 嘘をつく日、じゃなくて?」
「嘘? 意味もなく嘘なんてついたらだめじゃない」
 俺の困惑と同程度の困惑を視線に乗せて首を傾げる少女に、俺ははぁと大きく溜息をついた。それは紛れもなく安堵の吐息であったのだが、彼女は呆れによるものと思ったらしい。
「え、な、何? どうしたの? あたし何かおかしな事言った?」
 少し心細そうに問いを重ねてくる少女を、俺は妙な疲労を肩に感じつつ眉尻を下げて見下ろしたが、すぐに気だるさを払拭出来そうな事実に気付く。まだ少女の顔はキス直後の至近にあり、手を伸ばすまでもなくその唇に触れられそうだった。
「じゃあ君にも、俺の悪戯で存分にびっくりして貰おうかな」
「え?……わっ、ウ、ウィル!?」
 仕返しとばかりに、俺は少女の小さな果実のような唇に貪り付き、そこから紡がれる芳醇な文句の言葉ごとそれを味わう。
「い、いきなり何、って、ちょ、ちょっと、待っ……!」
 少女の悲鳴が、麗らかな春の日差しに溶け消える。

 その後は勿論――、きっと誰もが想像する通り。


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