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子猫たちの午後



うぃんてるさんに捧げる短編です。
本編とは設定の異なる箇所があります。

「ふわぁ……今日はあったかくて気持ちがいいね、ウィンちゃん」
「うん。クリスタルも気持ちよさそうに輝いてる」
 森の中にぽっかりと開けた明るい草原に、二人の少女が足を投げ出してほのぼのと談笑している。二人の傍らには、人間の背丈を大きく超える大クリスタルが冴え冴えと澄み渡り、燐光を漂い散らして佇んでいる。このメルファリアに生きる者であれば兵士ならずとも誰もが見慣れる光景ではあるが、いつ見てもやっぱり綺麗なものは綺麗だと、ウィンテルの声に誘われてクリスタルを眺めたミナはうっとりと目を細めた。
 平穏で穏やかな空気の流れるうららかな午後の森。丘を二つ三つ越えた向こうで行われている筈の戦闘の気配も、ここには全く届かない。
 戦争中とは思えない程の長閑なひと時だった。

 ミナは《ベルゼビュート》の面々と共に、ゲブランド帝国への援軍として、このウェンズデイ古戦場跡に於ける対カセドリア戦に参戦していた。
 ゲブランドとネツァワルは国土が隣接していない為あまり諍いが発生せず、メルファリアに存在する他の四国と比べるとその関係は比較的良好である。目下、カセドリアという共通の敵がいる事もあり――ネツァワルからするとカセドリアは単なる紛争中の隣国でしかないが、歴史的な因縁からゲブランドとカセドリアは、ネツァワルとエルソードの関係に匹敵する程の犬猿の仲だ――、ゲブランド帝国の対カセドリア戦には援軍として参戦する大義名分も立つ。尤も《ベルゼビュート》的にはそういった国家間の諸事情にはあまり頓着しないのだが。
 ともあれ、既に戦闘状態にあったゲブランドの砦に援軍として到着したミナは、砦付近のクリスタル採掘場で先に同じ戦場に参戦していた友人、帝国軍魔術師師団所属の伯爵令嬢ウィンテルと偶然の再会を果たし、その幸運を喜び合った。当初の予定では、ミナは《ベルゼビュート》の精鋭たちと実戦訓練がてらに前線に赴くことになっていたのだが、ミナは稀にしか会えない遠国の友人の方を優先し、クォークの隊とのパーティを維持したままウィンテルが率いる部隊、《冬の子猫》の裏方作業を手伝うことにした。
 ウィンテルの部隊には優れた兵士が多く前線でも華々しく活躍するが、母体が魔術師師団であるからか――若しくは、行き場を失い困窮した女性を保護するという活動も行っているからか、後方支援向きな兵士もまた多く、裏方として建築、召喚を担当する事も多々あるようだ。あらゆる役割をオールマイティにこなせる良部隊であると言える。
 主戦場は、援軍の《ベルゼビュート》と《子猫》の戦闘部隊に支えられ、終始安定して戦線を押し上げ続け、今は敵軍砦の陥落の報を待つばかりという状況である。
 優秀な軍師であるウィンテルは、本来どれだけ優勢な戦場の最終局面であっても、結果が確定するまでは気を緩める事はないのだが、今回は上官でもある父親のウィンザー伯爵にミナと共に僻地でのクリスタル採掘を命じられ、戦場とは思えない安穏さの中で寛いでいる次第であった。勿論それは、他国の友人との限られた時間を、慌しい司令部ではなく穏やかな僻地で過ごさせてやろうという親心に他ならない。ウィンザー伯爵自身も、攻勢作戦に於いてはやや不得手な面も見せるが、決して無能な指揮官ではない。この状況ならばウィンテルの頭脳抜きでも十分にこの戦場を勝利に導く事が出来るだろう。
 ミナは、うーんと腕を上に掲げて伸びをした。今しがた輸送ナイトも発った所なので、また暫くの間はここで二人きりでいられる事になる。クリスタルの採掘とは別にシャベルやつるはしでクリスタルを削る肉体労働ではなく、人の精神エネルギーを媒介としてクリスタルのエネルギーを少しずつ採取、凝縮し鉱石化するという作業なので、クリスタルの傍で軽く精神を集中しているだけでよく、ちょっとしたお喋りをしながらでもこなせる。流石に戦闘をしながらや、寝ながらというのは無理だが。
 ああ、あの時も、今みたいにお天気が良くてぽかぽかしてたなあ……
「そう言えば、ミナちゃんがクォークさんと出会ったのも、クリスタルの採掘中だったのよね?」
 クリスタルの横でうとうとと気持ちよく寝ころんでいたいつぞやの出来事をミナが思い出していると、ミナの頭の中を読んだようなタイミングで、ウィンテルがその時の事を話題に出して来て、ミナは思わず顔を赤らめた。
「う、うん。採掘中って言うか……たまたま、僻地のクリスタルで掘り切っちゃってサボってる所をね、クォークに見つかっちゃったの」
「ふふっ、サボりなんて珍しい。『裏方千人長』のミナちゃんが」
 愛らしい笑顔でからかってくるウィンテルにミナは、あはは、と照れ笑いをして頬を掻く。他に褒める所がないからなのか、他の人からは真面目だとよく言われるが、決してそんな事はないと自分では思うミナである。人よりも、ぼんやりして無為に過ごしている時間は圧倒的に多い。
 ふと思い出して、ミナは鞄からごそごそとこの戦場のマップを引っ張り出した。クォークと出会ったあの戦場では、劣勢である事にすら気付かずに呑気に採掘などを行っていたのだが――尤も、却って僻地にいたからこそ安全でもあったのだが――その時の教訓を生かし、以降ミナはまめにマップをチェックするように心がけている。つい十数分前にも確認した所だったが、今一度マップを見れば、やはり先程見た時と変わらず、あの日の戦況図を丸っきりひっくり返したような圧倒的な優勢である事が見て取れた。あの時は敵だった《ベルゼビュート》が今は味方であるからだろうか。やっぱり強い部隊なんだなあとしみじみ感心する。前線は遥か彼方で、この近辺には、負傷して下がろうとでもしているのかこちらの方に向かいつつある数名の友軍兵が確認出来るが、敵影はない。但しハイド状態のスカウトはマップにも映らないので、それだけには注意しなくてはならない。
 ひとまずマップを鞄の中にしまい直し、ミナとウィンテルは再びお喋りを始めた。
「ミナちゃん、クォークさんとは仲良くやってる?」
「えへへ、お陰さまで。ウィンちゃんは? いい人、見つかった?」
「ううん、中々いい出会いってないものだよね」
 以前、ウィンテルが巻き込まれた事件の折にはサイトが随分と彼女を気にかけていたので、もしかしたら二人はいい仲になるのではないかと思っていたのだが、彼はその後、ウィンテルとは別の女の子に愛を誓い、ゲブランドへと渡ったのだった。二人はウィンテルの部隊で彼女の庇護の下、仲睦まじく暮らしており、来年には子供も生まれるという。二人はとても幸せそうだった。喜ばしいことだ。
 けれど――。ウィンテル自身の幸せはどこにあるのだろう?
 ミナは、この心優しい友人の事が心配でならない。
 ウィンテルは、余りにも辛く苦しい過去を背負い、たくさんの傷をその身に受けてきた少女だった。けれどもそうでありながら彼女はその闇に飲まれることなく、仲間の為には自らの更なる傷も厭わずに戦い続けている。まさにその貴族の血に相応しい真なる意味での気高さを持つ少女だ。
 ウィンテルは、彼女の事を心から大切に思っている多くの仲間たちに囲まれて、いつも満ち足りたように微笑んではいるけれど、彼女には、彼女だけを愛し、彼女の幸せだけを望む、かけがえのない人が必要だと思う。ミナにとってのクォークと同じ立場になるその人に、この心清らかな友人を誰よりも幸せにして欲しい。愛情を分け与えるばかりだった彼女に、無償の愛を与えられる喜びを得て欲しい。
 ローブの胸元をきゅっと掴みながらウィンテルを見つめていると、彼女はふわりと優しい笑顔を浮かべた。
「本当はね、私は最後でいいって思っているの」
 その声にミナが目を見開くと、ウィンテルは草むらに足を伸ばして座ったまま、身体の少し後ろに手をついて空を見上げた。クリスタルと同じ色の空が、同じくらい眩しく美しく輝いている。
「うちの部隊の女の子は、色々と傷をを持った子も多いから……。セレンみたいに、皆がそれぞれ大切な人を見つけて、幸せになって旅立っていくのを見届けてからでいいと思ってるの。……皆が幸せになれば、私もきっと幸せになれる。そんな気がするんだ……」
「ウィンちゃん……」
 決して、幸せになる事を諦めた訳じゃないんだよ、と透明な笑顔で笑うウィンテルに、ミナも眦に涙の粒を浮かべながらにっこりと笑った。

 それからまた暫くの間二人で他愛のない話を続けていると、何の前触れもなく、ウィンテルがはっと顔を上げ、表情を引き締め背後の藪に視線を向けた。
「どうしたの?」
 唐突なウィンテルの挙動に思わずミナはきょとんとしてそう訊ねる。が、ここは曲がりなりにも戦場なのだ。警戒心をあらわにする原因と言ったら一つしかない。ミナも遅ればせながらわたわたと気を引き締めて、声を低めて再度問いかけた。
「て、敵?」
 ウィンテルは、ハイドサーチが取り立てて上手いという訳ではないが、辛い過去の経験ゆえか、他者の悪意に対して酷く敏感な所がある。ミナには察知出来ない害意に満ちた悪しき気配を感じ取ったに違いない。しかしウィンテルは、ミナの問いに少し悩むような表情を浮かべ、そのまま藪に向かって声を張り上げた。
「そこに隠れている人たち、出て来なさい!」
 ウィンテルの凛とした声が辺りに響き渡り、その残響が消えた頃、目の前の茂みががさりと動き、三人程の人影を吐き出した。それぞれ意匠の異なる鎧を身に纏った、ウォリアーの男たちだった。しかしいずれもウィンテルと同じゲブランド帝国に所属することを表す、紫の盾の紋章をつけている。統一性のない不揃いな装備は、彼らが正規軍ではなく義勇兵である事を示している。
 普通に考えれば――これはなんら警戒すべき事態ではない筈だった。ここはゲブランド側の僻地クリスタルだ。ゲブランドの義勇兵がクリスタルに採掘に来た所で何も不審な点はない。
 だが、ウィンテルはにやにやと嗤う男たちを前に、あたかも敵前にあるかのような緊張を纏ったまま杖を構えていた。ウィンテルの警戒につられてミナも立ち上がり、彼女の横で双方に対しておどおどと視線を交互に振っているのだが、察しの悪いミナは状況がよく分からない。
「友軍兵に対し気配を絶って近づくとは何事です。所属の確認もされずに斬り捨てられても文句は言えない所業ですよ」
 いつもの柔らかい雰囲気とは打って変わった毅然とした声で問うウィンテルに、男たちはやはりにやにやとしたまま、じりっと包囲の輪を狭めてきた。さしもの鈍感なミナも、その表情にはただならぬ邪心を感じて思わず後ずさる。
「ウィンちゃん……」
 怯えるミナを庇うように、ウィンテルが一歩前に出る。しかし、彼女とて本来は気丈な少女ではない。ただ、友人を護ろうという一心で、震える脚に鞭打って男たちの前に立ちはだかっているのだ。
 震える二人を前にして、男のうちの一人が口を開いた。
「いやあ奇遇ですね、ウィンテル伯爵令嬢にそのご友人。こんな、だぁれもいない辺鄙な所でお会いするとは……こんな戦域の外れの方、ご立派なお貴族様には相応しくありませんでしょうに、何でこんな所にいらっしゃるんですかい?」
 べっとりと粘つくような声音。それを口火として、他の男たちも次々に口を開く。
「それも護衛の一人もつけずに、ねえ。危ないじゃないですか」
「そうそう、気をつけなくちゃ駄目ですよぉ? レディ・ウィンテルのように高貴なお方には、どんな怪しい者が近づくか分かったもんじゃないんですから」
 貴族の子女に対する敬称を、侮蔑の籠った声で呼ぶ男にミナは眉を寄せた。男たちの言葉には並々ならぬ憎悪を感じるが、その憎悪は、ウィンテル自身にというよりは、彼女以外の何か……彼女の家か、当主の伯爵の方にあるように思えた。
 その異様な気配にはウィンテルも気づいたようだったが、まさに貴族の名に恥じない毅然とした態度のまま、男たちに言葉を返す。
「心配はご無用。私たちも兵士です、護衛は要りません。あなた方も、特に負傷はしていない様子。クリスタルによる回復も不要と見受けられますから、前線へと戻り更なる戦功を立てられると宜しいのでは?」
「戦功を立てるっつっても、前線はネツの《ベルゼ》の奴らが仕切っていやがってねぇ……奴らが邪魔をするお陰で俺たちみたいな野良は、旨い汁が全く吸えないんですよ。援軍の分際で生意気な奴らだ」
 男は今彼らがやって来た前線の方角をちらりと振り返って、忌々しげに言った。その言い分にはミナは少しむっとする。《ベルゼビュート》が前線で友軍の邪魔などする訳がない。連携の練度も個々人のスキルも高く、殲滅速度が圧倒的に高い為に、狙おうとした敵を片っ端から先に倒されてしまうという事を指しているならお門違いにも程がある。
 しかし男たちが戦場に意識を向けたのはそのほんの一時だけで、すぐにウィンテルとミナに、ぬるついた舌で舐め上げるようなおぞましい視線を戻しつつ、下卑た笑いを浮かべた。
「それに、そんな事よりも重要な用事がこっちにありましてねえ」
 男たちの醸し出す鳥肌が立つような気配に二人の少女は怯えたまま立ち尽くす。ミナが、ウィンテルの上着の裾を無意識に掴むと、ウィンテルは大丈夫、とその手の上に小さな手のひらを重ねた。
「俺たちは、ちょいとウィンザー伯爵と因縁がありましてね……」
 男の一人が暗く淀んだ瞳を二人に向けて、呟き始める。
「俺たちはもともと正規軍にいたんですがね、伯爵に嫌われて、追い出されてしまいましてねえ」
「お父様が単に好き嫌いだけで兵を追い出すなどとは考えられません。何か理由があった筈です」
 相手の瞳を睨み返しながら問うウィンテルに、男はひっひっと奇妙な笑いを浮かべて答えた。
「少々、軍の資金の一部、ほんの微々たる額を拝借した程度ですよ。お貴族様、あんたのお家の財産と比べれば、ほんの子供の小遣い程度にしかならない額です。それを、あのケチな伯爵は小うるさく責め立ててくれて。まったく、自分らは特権階級だからっていい気になりやがって」
「な、なにそれっ……ただの逆恨みじゃない!」
 想像以上に身勝手極まりなかった男の弁明に、ミナは思わず憤って声を上げる。貴族だとかそんな事は全く関係がないではないか。盗みなどを働いては、軍を首になるのも当然だ。ウィンテルのお父さんは、正しい倫理観で部下を罰しただけだ。
 だが、男たちは全く反省する様子もなく、ミナの糾弾に対し激昂して声を荒げた。
「何が逆恨みだ、貴族なんて言うからには、俺たちなんて目じゃねえ程に後ろ暗い事だってたんまりやっているんだろうに正義面しやがって! あいつには泣きを見て貰わなきゃ気が済まねぇんだよ!」
「大切な一人娘の無残な姿を見りゃあ、奴も俺たちにした仕打ちを後悔するだろうぜ!」
 卑劣な言葉を吐き散らしながら、男たちはミナたちの方ににじり寄って来る。貴族制度が形骸化して久しいエルソードで育ったミナには理解が難しいが、かつて一部の貴族の所為で政治が腐敗したゲブランドには、貴族制度に対する憎しみが今も色濃く残っているのだと言う。だからこそ、今爵位を持つ私たちは民の為に一層心を砕いて働かねばならないのだとウィンテルが語るのを、ミナは聞いた事があった。そんな立派な考えを持つウィンテルを育てた伯爵が正義に悖るような真似をしている筈がない。……というか仮に万が一、ウィンテルのお父さんがそういう真似をしていたとしたってやっぱり逆恨みには違いない。
 しかしこれ以上何を言った所で、この男たちの耳には最早届くことはないのは明白だった。男たちのぎらつく瞳は、二人の少女を報復に名を借りた欲望の捌け口としてしか見ていない。
 ミナはウィンテルの上着をきゅっと引っ張り、ウィンテルもミナが言いたい事を察して小さく頷く。次の瞬間、二人は息の合った動きで身体を反転させ、そのまま走り出した。
「待てコラぁ!」
 唐突に逃げを打った二人の少女たちを追い、男たちも慌てて走り出した。身体能力そのものは二人よりも遥かに男たちの方が優れているのだろうが、代わりに男たちは重たい鎧を身に着けていた。ミナたちのように機敏には走れない。
 鎧をがしゃがしゃと鳴らして追走を始めた男たちをちらりと振り返りながら、ミナはウィンテルに謝罪した。
「ごめんねっ、私が興奮させるような事を言わなければ……」
 どの道何かを仕出かすつもりであったとしても、男たちが暴挙に出るきっかけを作ってしまったのは自分だ。あそこは、相手を興奮させる事を控え、時間を稼ぐべき場面だった。しかしウィンテルは素早く首を横に振って見せる。
「違うよ、ミナちゃんの所為じゃない。彼らも大分興奮していたし、時間を稼げたとしてもせいぜい数秒の違いだわ。それよりも今は、逃げ切る事を考えよう?」
 優しい気遣いに、ミナは目に涙を溜めながらその涙を払い落とすように頷いた。今は、犯してしまった失敗を後悔するよりも男たちから逃れる事に専念しなくてはならない。
 クリスタルのあった開けた場所から木立の中に入り、木々の合間を縫うようにして、男たちの視線を遮りながら走り続ける。もしかしたら、これで撒く事も出来るかもしれない。幸いなことに男たちの足は思った以上に鈍重だった。マップを見ればこちらの位置は一目瞭然ではあるが、直接攻撃を食らいさえしなければ、恐らく振り切れる。
 しかし――
「ミナちゃん、避けてっ!」
 突如、高らかに響いたウィンテルの声に、どんくさいミナの反応は少し遅れた。え、と横合いに視線を向けた時にはそこにスカウトの装備を着た男が現れ出でていて、ミナに強烈な足払いを掛けようとしていた。こちらの逃走を予期して、男たちの仲間がもう一人、物陰に潜んでいたのだ。
 避け切れない。
 脛をしたたかに蹴りつけられたミナは、走る勢いも相まって、森の柔らかな地面の上にもんどりうって倒れた。
「ミナちゃんっ!」
 ウィンテルの悲痛な叫びが林間にこだまする。
「行って、ウィンちゃん!」数歩離れた所で立ち止まった彼女に、ミナは地面に手をつきながら即座にそう叫んだ。「逃げて、援軍要請を!」
 短剣スカウトは、二人を追うよりも、レッグブレイクを掛けて確実に仕留められる一人の方を狙う筈だ。ウィンテルが逃げて危機を仲間に伝えるのが、一番被害を抑える事が出来る方法だ。
 ウィンテルには、今迄にもう何度も何度も身体を張って助けて貰っていた。今度はミナが、そのウィンテルの自己犠牲を厭わない精神に、身を以って応える番だ。木立の向こうからは、最初の男たちの足音も徐々に近づきつつある。粘液質な暗い憎悪に身を委ねる男たちの手に落ちる事は、心が凍りつく程に恐ろしいが――ウィンテルは、その恐怖を幾度も体験し、それに堪え、そして乗り越えて来たのだ。ここでミナが逃げ出す訳にはいかない。
 ウィンちゃんは、私が護る――!
 しかし、ウィンテルの下草を軽やかに踏む足音は、ミナから遠ざかることなく、逆に背中を向けた彼女に近づいて来ていた。
「駄目よ、ミナちゃん」
「ウィンちゃ……」
「ミナちゃんを、置いていける訳ないじゃない」
 倒れ伏したミナの横に、ウィンテルはスカウトの追撃を阻むかのように膝をつき、細腕をミナの肩に回した。甘いお菓子のような香りと、優しい体温が伝わって来る。ミナは目から熱いものが流れ出るのを堪える事が出来なかった。とめどなく涙を零しながら、ウィンテルの腕に縋り付く。
「ごめんね、ごめんねっ、ウィンちゃんっ……」
「ううん。……護ろうとしてくれて、ありがとう……」
 ウィンテルの頬にも涙の筋が伝っていた。二人の少女は固く抱き合い、追いついてきた男たちも含めた四人もの悪意の主たちを、何物にも怯まない視線で睨み返した。
「全く、手間を掛けさせやがって……!」
 男の口調には苛立ちも混じっていたが、陰湿な愉悦が大半を占めていた。男たちにしてみれば今の追走劇など、哀れにも逃げ惑う無力な子兎を狩っているような感覚だったに違いない。罠にかけ、追い詰めた子兎を嬲る嗜虐心に満ちた表情で、男たちの手が四方から伸び、ウィンテルとミナの華奢な手足を捕らえる。
「やっ……!!」
 まるで軟体生物の触手のようなその手と迫り来る男たちの醜悪な表情、生臭い吐息に生理的嫌悪を覚えてミナは顔を背け、悲痛な叫びを上げる。
 その時。
 森の柔らかな地面を駆る重厚な馬の蹄の音が、周囲の空気を震わせた。

 硬く整備された街道を行く馬の軽快な足音とは違う、地響きのような低い音は、初めのうちは喧騒に埋もれて誰も気付く事が出来なかった。だが、木々の合間を器用に縫って、大型の騎馬が駆けてくる姿がちらちらと映り、そこにいる全ての人間が思わずそちらを注視した。
 それは自軍側のナイトだった。さっきまで輸送に来ていたそれとは違うようで、人馬共に傷の一つもない召喚したばかりと見えるナイトが、こんな後方に何の理由があってやってきたかは分からないが、男たちの訝しげな様子から察するに、彼らの仲間という事はなさそうだ。
 六人分の視線を受ける中、そのナイトは、だんっと力強く地を蹴って、森の木々をも超える高さにジャンプすると、少女たちに群がる男どもを蹴散らかさんばかりに騒動の中心へと着地した。踏み潰されてはたまらんと、蜘蛛の子を散らすように男たちは後ずさる。
 そして、着地とほぼ同時に、ナイトの全身が青い光に包まれた。輝きと共にナイトの魂が異界へと還って行き、召喚が解かれる。その光の中、現れ出でた召喚者は、ナイトの馬上槍に代わって手元に出現した自前の武器、大きな両手斧を高々と頭上に掲げると再度跳躍し、猛然とそれを驚愕してへたり込む男たちを目がけて叩き付けた。
 ずん、と、屈強な騎馬の蹴りをも遥かに超える衝撃が大地を揺るがした。武器が撃ち下ろされた地点を中心として大地が脈打ち、その撓められたエネルギーは熱のない大爆発に転化された。森の豊かな地面を深々と抉り、ミナの太腿程の太さもある大樹の根すらも引きちぎり、四人の男たちを巻き込んで間欠泉の如く土砂を吹き上げる。
 一瞬の静寂の後、ぼろ雑巾のような様相になって尻や背中から落下してきた男たちとは対照的に、斧の使い手は鮮やかに自らの二本の足で、男たちから少女らを庇う位置に着地した。その背中をミナは座り込んだまま仰ぎ見る。ナイトの騎兵姿にも似た金属鎧を身につけた、両手斧をその手に携える、屈強な黒髪のウォリアー。
「クォークっ!」
「悪い、遅くなった」
 涙声でその名を呼ぶミナに、彼はミナに背を向け敵を見据えたまま、片手をひょいと上げて軽い声で応じた。
「マップを見た感じ、味方しかいない筈なのに何か変な動きをしてるなあと思ったら……こいつらは一体何なんだ? 通信入れても何だか取り込んでるみたいで要領を得なかったんで、思わずナイト出して来ちゃったよ」
 余りにも余裕がなかったので気付かなかったが、彼の方から通信を入れてくれていたらしい。クォークの口調はとても敵を前にしているとは思えない呑気な様子で、極限まで追い詰められていたミナの緊張を僅かながらにほぐした。
「ウィンちゃんに、何か恨みがあるみたいなの……逆恨みっぽいけど」
 囁き声でミナが告げると、実際はあまり興味はなかったのかクォークは「ふぅん」とだけ答えた。
「お、おま、体力フルでナイト解除……」
 深々としたクレーターのほとりで、ぼろくずのように倒れ伏している男たちの中、ただ一人昏倒はしていなかった重装備の男が、思わずといった様子で唖然とした呻きを漏らし、クォークの視線がそちらに向けられる。クォークは斧を肩に担いでとんとんと首筋を叩きながら、嘲るようにふんと鼻を鳴らした。
「全部自分で取ったキルクリだ。細かい事言うな。それに……味方を二人助けた上に敵を四人も殺れるんだから、十分有意義な使い方だろ?」
 敵四人――自分も既にカウントされている事に気付いた男はざあっと顔を青くした。
「ちょ、ちょっと待て! 俺はゲブランド帝国の兵士だ! て、敵じゃないっ!」
 この期に及んで都合のいい事を言い始める呆れた男に、クォークは相手の言葉を吟味するように、ほんの少し首を傾げてから、応えた。
「へえ、そうか。ところで俺はネツァワル国民なんだ。……ゲブランド帝国は敵だったなあ?」
「っ!?」
 ぎょっとして、男が凍りつく。クォークの一見能天気な声の裏にある明確な殺意に竦み上がり、数秒の間、凍りついたように立ちつくしていたが、急に我を取り戻し、仲間を放置して弾かれたように走り出した。
「逃がすかよ」
 そんな男の背中に声を投げかけ、クォークが走る。ストライクスマッシュで即座に相手の至近に追いすがり、スマッシュを撃ち放つ。痛みを精神力で凌駕する技を心得るウォリアーは、本来スマッシュの一撃などでは小揺るぎもしない筈であるが、男は今はその精神力を維持する気力もないのかぐらりと身体を傾がせる。そこへすかさず詠唱を済ませていたウィンテルのアイスジャベリンが突き刺さり、男の足を止め、とどめにミナが撃ち放ったファイアランスの炎が敵の全身を舐めた。
「ナイスキル」
 ぷすぷすと白い湯気を立ててぱったりと倒れ伏す男を見届けてから、クォークは二人の少女を振り返り、にこりと笑って親指を立てた。


「ま、今回は本当に殺しちゃいないけどね。殺してしまったら逆にこっちの潔白を証明するのに手間取りそうだし、ここで死なすより、本国に連れ帰って裁いた方が思い通りの罰を与えられるだろ」
 念の為、倒れ伏した男たちの脈を確かめ――最後の男は三人の連撃を食らって重傷だが、残る男たちは油断しきっていた所に食らったドラゴンテイルで気を失っていただけだったので、クォークが鞄から取り出したロープできつく拘束し――通信石で衛生兵の派遣依頼を入れてから、クォークは口の端を上げてシニカルな笑みを見せた。その横顔に、流石は大部隊の幹部と言うべき腹黒さと計算高さが垣間見える。……敵国との戦闘中にそれを放棄して自軍の女性兵士を襲うなどという、兵士どころか人間としてあるまじき行為は厳罰に処されるだろう。事によってはここで死んだ方がまだマシだと思える処罰になるかもしれない。
 その男たちの罪の深さを想像し、ミナは今自分たちがたった今遭いかけた被害の凄惨さに改めて身震いした。クォークが来てくれなかったら、死ぬよりも辛い目にあっていたのは自分たちだったに違いない。
 スカウトの男に食らったレッグブレイクの痺れは既に治まったものの、いまだ恐怖に震える両足をどうにか動かして、ミナはクォークの方へと歩き出した。丁度、通信石を鞄にしまい終えた所だったクォークは、目も開いていない子猫のような危なっかしい足取りで近づいてくるミナに気付いて慌てて手を伸ばし、よろめき倒れ込む少女の身体をその逞しい腕でしっかりと受け止めた。
「ミナ、もう大丈夫だ。もう君に危害を加える者はいない」
「ふぅっ……う、ええぇ……、クォーク……、クォークぅ……」
 籠手に包まれた無骨な手に頭を撫でられて、ミナは堰を切ったように泣き出した。子供のように嗚咽するミナをクォークは優しく撫で続け、ミナの怯え強張った心を癒してゆく。十秒ほどの間、クォークの胸の中で無心に泣き続けた所で、ミナはとても大切なことに気付いて顔を上げた。
「ウィンちゃん……」
「うん?」
 真っ赤に目を腫らし、聞き取りにくい鼻声で訴えるミナの要求を把握しようと、クォークがミナの口元に耳を寄せる。ミナは鼻を啜って、出来る限りはっきりとした発声でもう一度訴えた。
「ウィンちゃん、も」
「ん、ああ。そうだな」
 ミナの短い言葉をクォークは理解し、顔を上げ、その首を横へと向けた。彼の視線の先には、優しい微笑みを浮かべて二人を見守るウィンテルの姿がある。
 しかし、その微笑みには――自分では自覚していなかったのだろうが、羨ましさや寂しさ、切なさ――彼女が普段心の中に押し込めて我慢してしまう様々な感情の欠片が、星屑のように散りばめられていた。
 そんなウィンテルに、クォークとミナは手を差し伸べて、告げる。
「……ごめん。こっちに来てくれる?」
 ウィンテルは最初驚いたように目を丸くしたが、やがておずおずと二人に近づくと、眦に涙を浮かべるミナの微笑を湛えた頷きを受けて、ミナと同じような恰好で、クォークの胸に額を寄せた。クォークは自分の恋人とその友人、二人の少女を両腕で分け隔てなく包み込み、抱き締めた。
「…………暖かい」
 少しだけ、戸惑うような、新鮮な感触に驚いたような声で囁くウィンテルに、ミナは、うん、と頷いた。分厚い鎧の上からなのに、彼の腕に包み込まれると、不思議と心の中にほっこりと火が灯るような温もりを感じる。
 この、温もりを。
 ウィンテルにとっては、真実の物ではないかも知れないけれど、確かに彼女に向ける愛の詰まったこの温もりを。少しでも、ウィンテルに感じて欲しい。
 いつか、彼女にも本当の幸せが訪れますように。
 ミナは、隣でじっとしているウィンテルの手をそっと取り、握り締める。二人の子猫はクォークの腕の中で、こつんと額をくっつけて柔らかな笑みを零し合った。

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