先輩と俺の話
ひゅおおぉおぉ……
渓谷を吹き抜ける風が巨岩の群を撫ぜ、甲高い音を立てる。それはまるで悲鳴……否、竜の息吹のようだった。
「先輩……マジでやるんすか」
「おうよ。その為にわざわざアークくんだりまで来たんじゃねえか」
寒さとは違う何かに震える俺の声に、隣に立つ男は意気揚々と答え、手に持った獲物をびしっと鳴らした。立ちはだかる障壁に挑まんとする彼の勇気は、その脅威を目前にしても全く折れることを知らない。
こうなっては最早、何を言っても無駄だろう。
……まあ最初から何言っても無駄な人なんだが。
湿った風に前髪をたなびかせながら、俺は死んだ魚のような目でその障壁を――言葉通り、目前に聳え立つ絶壁を見上げ続けていた。
「おい、竜の巣に探検に行こうぜ!」
出会い頭に元気一杯訳の分からん事を言われて、俺は咄嗟に何も言う事が出来ず、ただ相手の顔をまじまじと見つめ返した。
目の前で俺にやたらとイイ笑顔を向けているのは、俺と同じウォリアーの先輩だ。部隊入隊時からずっと世話になっている恩義のある人だけど、それと同じくらい世話を掛けさせられてもいる面倒臭い人でもある。
「……はい? 竜の巣?」
とりあえず聞き覚えのない名称について確認すると、先輩は妙に得意げな感じで顎を上げた。
「知らねえの? 最近、アークトゥルスで発見されたんだぜ」
「竜の巣が?」
「竜の巣が」
要領を得ない。が、それはこの人と話す場合においては割といつもの事なので、いつも通りに辛抱強く話を聞いていると、どうもそう呼ばれる地形が最近発見されたらしい。何でも四方を谷に囲まれた高台で、然程の標高ではないらしいのだが、その険しさはとても人が踏破出来る物ではないとのこと。ドラゴンの翼でのみ頂に到達し得るその険峻な岩山は、兵士達に竜の巣と呼称されるようになったのだという。
「でも、登れないって今言いましたよね。探検って……」
首を傾げながら訊くと、先輩は待ってましたと言わんばかりに鞄を漁り、俺にそれを突き付けてきた。
瞬間、俺の顔は盛大に引き攣る。鼻先で見せ付けられているそれは、ハーケンとかザイルとか、要するに登山用の道具だ。
「登れねえってのも、重装備で大剣だの担いで登るのは無理だって話で、最初から登る気で行くなら話は別だ」
「アークっつったら中央大陸のど真ん中じゃないすか!? そこに!? 武装もせずに悠長にロッククライミングしに行こうと!?」
何考えてんだこの人は! 仰け反る俺に答える声は、しかしやはり軽い。
「平気平気。今最前線は南で膠着してっから」
「それにしたって、モンスターだっているでしょ!?」
「んなもん基本スルーするし。片手剣とか最低限の武器だけ持ってきゃ大丈夫だろ」
いや大丈夫じゃねーだろ、訳分かんねー! 何か意味あんのかその行為に!
と思うがどうせ言った所で、そこに山があるっていう立派な意味があるじゃねえかとか斜め上な事をさも当然のように返されるのがオチだ。自分の身に襲い掛かりつつある窮状を回避すべく思考を巡らせる俺だったが、多分今回も結局言い包められて巻き込まれるんだろうなと、先輩との長い付き合いから半ば悟ってはいた。
という訳で案の定回避に失敗した俺は、始終五大国がドンパチやらかすエスセティア大陸の中心近くで愛を叫ぶ、もとい山に登る暴挙に引きずり出される事になったのだが。
結局現実的には、遠い戦場で飛び交っている弓や魔法よりも、そそり立つ岩壁の直接的な脅威の方が遥かに俺を震え上がらせた。
こういう所に指引っかけてな、こういう所に足引っかけてな、引っかかれば後は適当に力で登れるもんだろほらほらほら、と弁舌滑らかに説明される訳ですよ。実際俺もウォリアーとして腕力も体力も並程度にはあるので意外と登れてしまう訳ですよ。普段の訓練のように手際良くレクチャーを受け先輩に付き従い上り始めてみれば、おお案外簡単な物かもしれないと錯覚してしまう訳ですよ。
そしてふと気がついて足元を見てみれば。
「いやー!? 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬマジで死ぬ!」
「死なねえって。落ちなきゃ」
「その転落というただ一点に心底から恐怖を覚えてるんでしょーが!? 大体っすね、素人をこんな所までいきなり連れてきますか普通!?」
「いやお前筋がいいようん。ここに至るまで全く下を見る事を思いつかなかった辺り特に筋がいい」
「褒めてごまかそうとしたってそうは行きませんよ! ってか褒められてねえ!?」
冷静に考えれば、全面的に先輩を非難するのはどうかなという状況ながらも誰かを非難せずには自我を保てなさそうな切迫した精神状態に耐えかねて、俺は半泣きで絶叫していた。例えるなら、木の上に登ったはいいが下りられない子猫、まさにその気分だ。例えっていうかまんまだ。
ただ子猫ならにゃーにゃー騒いでいれば運よく通りすがりの人間に救助して貰えるかもしれないが、可愛げもないウォリアーの男が岩壁にひっついてぎゃーぎゃー騒いだ所できっと永遠に誰も助けてくれはしない。そのうち前線が後退しここが戦場になったら敵が撃ち落としてくれるかも知れないが言うまでもなく自ら落ちるよりも状況が悪い。
「いやー! 墜落死とかそんな凄惨な死に方やだー!!」
「ははは。死に方に凄惨でない物なんぞないから安心しろ」
幸いにして何気に懐の深い先輩は俺の詰りも泣き言もさらり受け流し、その後も丁寧に手がかり足がかりを指導し続けてくれて――数時間の死闘の後、俺はどうにかその難局を乗り切る事に成功した。これ程乗り切るって言葉が比喩になってない体験もそうそう出来ないであろうと非常にどうでもいい事をぼんやり考えつつ、俺は山頂へと目を向けた。
「おお……」
その瞬間、俺の口からは自然と声が漏れていた。
山頂は、ここまでの難易度蜘蛛五つレベルの道のりを全く想像させないなだらかな草原になっていた。丈の短い草が緑の絨毯を形成し、ぽつんと立つ広葉樹がのびのびと枝葉を伸ばしている。そしてそのほぼ中央辺りには、澄んだ水がこんこんと湧き出す泉があった。泉から流れ出る清水は小川となり、四方に分かれ、飛沫を上げて下界へと注がれている。成程、渓谷の水源はここだったのか。
余りにものどかな風景は、俺に命懸けの崖登りを本気で忘れかけさせて、弁当でも持って部隊員皆でピクニックに来たら楽しそうだなあと想像させた。すぐ我に返ったけど。
先輩は、その光景をぐるりと見渡すと、流れる小川のほとりでごろんと横になった。腕を組んで頭の下に敷き、何も遮る物のない空をしばらく眺めてから、満足そうに目を閉じる。
「全く……」
どれだけ自由な人なんだ。まだまだ文句は言い足りないというのに。けれども俺も何だか眠くなってきて、先輩に倣って草地に転がった。
静かな場所だった。あらゆる不快な喧噪は届かず、草木のざわめきや小川のせせらぎや小鳥のさえずりが子守唄のように耳に触れる。瞼を閉じてとろとろと襲ってくる眠気に身を任せていると、小さないくつかの羽音が一斉に聞こえた。飛び立つ小鳥たちの群か。その後しばらくすると、今度は悠然とした大きな羽ばたきの音が遠くから聞こえ始めた。
こっちは何だろう、と目を閉じたまま考える。猛禽だろうか。だったら小鳥たちが逃げて行ったのも頷ける。羽音は徐々に近づいて来るようだった。空を叩くとでも言うべき力強い羽ばたき。何というか、凄まじい存在感を感じる。余程大きい鳥なのだろう。
閉じた瞼の奥に、すっと影が差した。近づいてきた鳥の影が陽光を遮ったのか。……って、それグリフォン並みにでかくね?
俺ははたと目を開けて、空を見上げた。その瞬間、顔面を打ちつけてきた突風に、俺は咄嗟に手の甲で目を覆う。
細めた瞼と指と指の間に見えたのは、びっしりと鱗で埋まった白い腹だった。規則正しい網目を成す腹が、眼前にあった筈の青空を塞ぎ、真上で静止していた。ゆっくりと顔の前の手をどけて、その全貌を眺める。
目の前に浮かんでいるそれは、巨大な爬虫類だった。背や腕には腹のそれよりもより硬質そうな、金属にも似た質感の赤い鱗を纏い、飛膜の翼を羽ばたかせ、空中にある玉座に座するかの如き貫録で俺と先輩を睥睨している。
そう、それこそは――
「ドラ……」
「……ゴン」
呆然と、俺たちの口がその名を刻んだ。
戦場に於いては召喚獣として使役される事もある、見慣れていると言えば見慣れている姿だが、その力感溢れる威容は十分に俺たちを絶句せしめるに値した。戦場でだって、こんな間近でいきなり遭遇したらビビるっていうかチビる。
「なっ……なんっ!?」
情けなく吃りながらも俺は咄嗟に跳ね起きて、右手で傍らにある筈の両手斧を探した。その指先が何もない草地を撫で、うっと息を呑む。そうでした、邪魔なんで持ってきてませんでした!
竜の巣ってのは俗称じゃなかったのか。ドラゴンがなにゆえ戦場以外にノコノコ現れてるんだ。いつからドラゴンに野生種が発生したんだ――言いたい事は多々あれど、蜥蜴の瞳に、巣を荒らされた獣の敵意を見れば、言い訳じみた文句なぞ呑み込むより他はない。
既に俺の横に立ち上がっていた先輩は、小声で俺に囁きかけた。
「逃げるぞ。合図で登って来た場所までダッシュ」
「う、うす」
逃げる事に異論なぞ無いが、崖っぷちまで走って一体どうするんだ。疑問は生じるが、戦場に於いてリーダーの指示は絶対だ。
「3・2・1・行け!」
カウントに合わせて、俺は一目散に走り出した。そして、目にする。
俺と一緒に崖の方向にではなく、俺と反対側、竜の巣の中心側へと走って行く先輩の姿を。
ドラゴンは分かれた獲物に一瞬逡巡したようだったが、先輩に狙いを定め、俺に尻尾を向けて旋回した。
まさか、俺を逃がす為の囮に――!
「先輩!」
感に堪えずに呼ばわると、答えるように先輩が一声、叫んだ。
「畜生こっち来やがった!」
「囮にする気満々かよ!」
――まあ巣の中心に向かう事を選んだ以上、本当は自分の方が追われると多分想像はついていた筈だ。先輩一流のジョークだと思う。思う事にする。
俺は即座に反転してドラゴンと先輩の方へ向かった。「来んな馬鹿!」と手を振られるがこの指示には従う気はなかった。かと言って、護身用に持ってきたちっぽけな片手剣で竜に斬りかかる度胸もない。結果、ドラゴンの死角で先輩を見守るというあんまり格好のつかない格好になる。
ドラゴンと対峙した先輩は、抜き払った片手剣を両手剣のように正面に構えてじっと竜を睨んでいた。人の身で竜を討つ事は限りなく不可能に近いが、その挙動を見逃さず回避に専念すれば攻撃を避ける事は可能だ。
ドラゴンが背を反らせ、顎門を大きく開いて劫火を解き放った。
飛来する火の玉を、先輩は慣れたタイミングでステップして躱そうとする――が。
「うおぉ!?」
げ、足元狙い! 直撃ではなく爆風で相手を焼こうという、獣らしからぬ小手先テクにタイミングを逸し、火球の爆風を受けた先輩は、軽く焼け焦げながら吹っ飛んだ。「先輩!」青褪める俺の眼前で、しかし先輩は即座に立ち上がると、鞄のポケットからリジェネレートの瓶を取り出して、それを口に流し込んだ。
しかし、そこにドラゴンがすかさず炎を吐いてくる。
今度は直撃コースであった火球を辛くも避けた先輩だが、炎は避けた軌跡に残っていた先輩の鞄のみを掠めて、それを引きちぎった。先輩がぎょっとした顔で首を巡らす。破けた鞄からリジェネレートの瓶が飛び出し、放物線を描いてその悉くが間近の小川に落ちて行く。水中の岩と衝突し、澄んだ音を立てて次々割れた魔法の薬は、水面に橙色の染みを作った。
「ちょ、マジかよ!」
日頃の行いの罰が一気に来たような想定外の悪運に先輩が本気で動揺した声を上げる。まだ回復薬があるから、という部分に起因していた余裕が一気に吹き飛んだ。戦場でだって、回復薬を全く持っていない状態では前線にはとてもいられない。ましてやドラゴンと相対してなど。
竜の顔にニヤリと笑みが浮かんだ気すらした。頬を引き攣らせる先輩を凝視したままドラゴンは空に舞い上がり、牙を見せつけるように口を開く。
そして――
唐突にそいつは甲高い悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
――あれは、サンダーボルトの魔法!?
「何やってるんだ、貴様ら」
驚愕する俺たちに、冷徹な呆れ声が掛けられる。聞き覚えのある声に、先輩と俺は同時に振り向いて叫んだ。
「先輩!」
「超先輩!」
崖際に立っていたのは、先輩の更に一個上の先輩に当たる、黒いミニスカートのソーサラーだった。傍らには、魔導具の黒猫が浮いている。成程あれならかさばらずにロッククライミング可能! でもミニスカで崖登りとかなんて勇者!
そんな事を考えていると、切れ長な目がぎろりと俺の方を睨んだ。
「何だその超先輩ってのは」
「え、先輩の先輩だから?」
いや適当に言っただけだけど。
「その表現はやめんか。上の兄貴なら超兄貴か」
あ、ちょっとやだねそれ。
ソーサラーの超先輩は、起き上がろうとしているドラゴンに視線を戻した。ドラゴンは、憎悪に満ちた目で超先輩を新たなる標的に見定めると、グワァと大口を開いた。
そこに再びサンボル。
撃墜されるドラゴン。
うぁ。と思う間にも、躊躇なく自らドラゴンに接近しては、サンボル。サン(略)
――ついに天空の覇者ドラゴンは、俺たちに背を向け巣を明け渡し、飛び去って行った。
……何この惨劇。
「四、五回も立て続けにサンボル食らえば大抵のドラゴンは泣いて逃げる」
魔導具猫を旋回させ、悠々と仰る超先輩に、フォローに入ろうと足を踏み出し掛けた体勢で硬直していた俺は畏敬の眼差しを向けた。
そりゃ嫌だろうネ……
「いや、あの時はどうなる事かと思ったぜ」
また先輩と俺が馬鹿をやっている、という情報をとある筋から聞いたとの事で、超先輩は首都から遥々俺たちを追いかけて来てくれたのだそうだった。先輩共々正座させられ説教を食らい、首都に連行されて部隊長とかにも説教を食らい散々な目に遭ったが、数日すると先輩はけろりとした顔で俺の元にやってきた。
そして今日もまた、訳の分からん事を言う。
「所でちょっと新しい商売を始める事にしたんだ」
「はい?」
訊き返す俺に、先輩は待ってましたと言わんばかりに鞄を漁り、それを突き付けて来た。何このデジャブ。
「じゃーん! 史上初、缶入りリジェネレート! こないだの教訓を得てな。これ売れると思わねえ? 思うよな? って事で今から営業出掛けっぞ!」
…………。
何でこの人はこう次から次へと妙ちくりんな事を思いつけるんだろうか……
嘆息しつつ、この状況を回避すべく思案を巡らせるが――やっぱり今回も、どうせ巻き込まれるんだろうなという諦め以外には何も思いつかなかった。
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