我らが姫君の話


「おはよう御座います。お仕事、ご苦労様です」
 清澄なる朝の空気に響く、繊細かつ玲瓏な、銀鈴の音の如き声。清楚な絹の衣装を纏い、僅かな供を連れて城内を歩かれる姫に、朝一番にお声掛けされる栄誉に浴した私は天上に舞い上がらんばかりの喜悦を覚えた。同時に、確信に近い強さで予感する。ああ、今日は必ずや素晴らしい一日となる事だろう。
 本来ならば私如き下級の親衛隊員風情には直接ご尊顔を拝する事すら許されぬ、我が国で最も高貴なるお方は、しかしながらいつでも誰にでも平等に微笑み掛けて慈愛に満ちたお言葉を下さる。
 カセドリアの至宝。掌中の珠。類稀なる美貌と、そしてそのお立場から、口さがない者達にウィンビーンの人形と揶揄されることもあるが、それでも多くの国民に慈しみ愛されるのは王たるあの方ご自身の素質と言えよう。
 まさに一言で言うなればカセドリアのアイドル。
 聖女王ティファリス様とはそんなお方である。


 朝方に得た素晴らしい一日の予感は、実際に現実の物となった。午後になり、部隊長に呼び出された私は一つの大命を受けたのだ。
 何と、次に行われる姫の巡幸のお供を許されたのである!
 ティファリス様御自らが連合国領各地を巡られる『巡幸』は、聖女王のご威光を国内にあまねく示す為の最重要のご公務の一つだ。長く続く戦乱に耐え忍ぶ民衆を労うというのが名目であるが、これには政治的な意味合いも色濃い。ゲブランド帝国から独立して日の浅い我が国では、辺境地域に於いてはいまだ帝国の影響も強く、統治に様々な支障を及ぼしている。
 そのような我が国が抱える問題を逆に利用する形で巡幸は行われる。自国内とはいえ潜在的には最前線にも変わらぬ危険を孕む場所へ、聖女王御自らが敢えて直接赴く事によって、真なる統治者の御名と聖女王が擁する傭兵団の勇名をより強く高らかに知らしめるのである。
 勿論、厳重な警戒態勢を敷いて行われるが、相当な危険を伴うご公務であることは否めず、随行する親衛隊が負う責任も計り知れない。だがその分、その重要任務に加われるのは大変な栄誉であると言えた。私は、幼き身で――いや、エルフであるティファリス様は外見こそ未成年であられるものの、その実立派な成人女性であらせられるのだが――、このような危険と相対せねばならない姫のお立場に心を痛めながら、この命に代えても必ずや姫の御身はお守りすると堅く決意した。

 選りすぐりの親衛隊員を従えて首都アズルウッドをご出立されたティファリス様は、ご予定通りに各地を訪問され、民衆の熱烈な歓迎を受けた。国内には姫ご自身や連合王国の体制に対し叛心を抱く者もいるとは言え、やはりティファリス様の魅力は多くの国民の知る所なのである。随所で喜びに綻ぶ国民の笑顔を見た私は、末席ながら姫のお傍に仕える者として、誇らしい気持ちで一杯になった。
 巡幸の行程はつつがなく消化されていき、そのまま何事もなくご帰還の途につかれるかに思えた。――が、事態はある日、急変する。
 各地で民衆から受ける熱狂的な歓迎に、姫は常に笑顔を絶やされる事はなかったが、やはりそのか弱いお体には相当な無理が掛かっていたのだろう。日程も半ばを過ぎ、大陸最東部を進む最中、姫が突然倒れられたのだ。
 侍医によると長旅の疲れと心労による過労との事で、数日間の静養が必要との診断が下された。予め様々な状況を予測し万全の体制で臨まれている行事であったので、この事態は想定外と言うべきものではなかったものの、都からも遠い辺境での足止めは全親衛隊員に危機感を催させるには十分だった。
「まずいな」
 ウィンビーン将軍が深刻な口調で呟くのを、私は図らずしも耳にしてしまい、ゴクリと唾を飲んだ。
 地理的にもゲブランドに程近いこの大陸東部は、領内でも特に警戒が必要と目される地域であった。この近辺では、民衆はおろか、聖女王に忠誠を誓った筈の諸侯の中にすら帝国の息の掛かる者が存在すると言う。
 ここが連合各国の都であればまだ危険も少なかっただろう。いかな叛意を隠し持つ諸侯であっても、流石に自分の膝元で聖女王を害するなどという大それた真似には及べまい。しかしこの日ティファリス様がご宿泊されるのは、心細くなる程にささやかな地方領主の館であった。防衛拠点というよりは風光明媚な田舎に建てられた貴族の別荘という趣の城館で、非常時の砦とするには余りにも心許ない。
 否、事によれば既に城内に、悪意を持つ者も存在するやも知れぬ。
 もし、姫の御命を狙う不逞の輩がいるとすれば、これは格好の襲撃の機会となると考えられた。


 その日からの警護は、これまでに輪を掛けて極めて厳重に行われた。通常、警衛・待機・休養の三交代である親衛隊員の勤務を警衛と待機の二交代に変更し、警戒に当たる人員を最大限に増員する。こんこんと寝室で寝込まれるティファリス様の周囲をくまなく固め、昼夜を問わず、鼠一匹の侵入も許さぬ程に、我々は鋭く眼を光らせ続けた。
 極度の緊張と激務に身を晒し、精強なる親衛隊員の体力、胆力を以ってしても徐々に疲労が現れ始めた四日後の夜。まさにそのタイミングを狙い済ましたように忌まわしき計画は実行へと移された。
 敵もさるものと言うべきか。それは恐らくは、姫がこの地へ御行幸あらせられるよりも遥かに前から練り上げられていた計画であったのだろう。襲撃者の仕事は一にも二にも待つことだ、と、かつては何かしらの裏家業に手を染めたこともあると噂に聞くウィンビーン将軍から、雑談がてらに聞かされた事があるが、この恐るべき計画の立案者も、姫がこの辺境で倒れられるなどという、予測不可能な千載一遇の好機を耽々と狙い続けていたに違いない。その辛抱強さだけは感嘆に値する。
 開始の号砲となったのは、夜のしじまを前触れなく破って上がった爆音と火の手であった。
 轟音を伴って、突如として闇を紅蓮に染め上げた大規模な爆発に、城門付近で警備に当たっていた私は咄嗟にそれが発生した城壁方面へと足を踏み出しかけた。
 ――が、すんでの所で思い止まる。あれは、恐らくスパークフレアの魔法。見た目の規模こそ派手で心胆を寒からしむる物があったが、攻撃範囲に特化し熱量を集約されていないその魔法は、その実、然程の威力を持たない。
 恐らくは陽動。
 そう判断した私は、即座に踵を返し、一心不乱にティファリス様のご寝所へと急いだ。

 姫の許へと向かう途中の廊下で、私は数名の同僚が倒れ伏しているのを目にした。既に敵は我々を出し抜いて城内に侵入を果たしているのだ。そしてその事以上に、屈強な精鋭である彼らを斬り捨てた襲撃者の技量に慄然とする。同僚たちはまだ息があるようで、苦悶の呻きを上げていたが、私は涙を飲んで彼らの間を駆け抜けた。我々親衛隊員には同僚の救助よりも優先せねばならぬ事がある。
 所々に蝋燭が点される暗い廊下を走り抜け、館の最奥、姫のご寝所の前へと辿り着いた私は息を呑んだ。固く守られている筈の姫のお部屋の扉は、大きく開け放たれていた。
「姫っ!」
 何らかの罠が仕掛けられているかもしれないという危険も顧みず、私は一瞬の迷いもなく部屋の中に足を踏み入れた。
 結論を言えば、そこに罠などはなかった。ただ、私を震撼させる事態のみが存在した。
 ベッドに姿勢正しく眠るティファリス様の傍らに、常に控えている筈のウィンビーン将軍の姿は何故かなく、代わりにどこから見ても暗殺者だと言わんばかりの格好をした黒衣の人影があった。
 男か女かも判然とせぬその黒衣の暗殺者は、手に二振りの短剣を下げていた。廊下から漏れ入る僅かな蝋燭の明かりに、肉厚の刃が妖しく光る。
「う、動くなっ!」
 私が咄嗟に張り上げた制止の声など聞くそぶりも見せず、横たわる姫を見つめた暗殺者はその刃をすうと掲げて、一声叫んだ。
「……お命頂戴っ!」
 黒い影が、静かに眠るティファリス様に雷光の如き素早さで飛び掛かる。
 私はせめてこの身を呈して姫を庇おうと飛び出したが……間に合わないと、信じたくない気持ちに反して理性が告げていた。
 手を伸ばして駆け寄る私を嘲うように、鈍色の刃が、柔らかな白いシーツに突き刺さる――
 寸前。
 予想だにせぬ出来事がその場で起きた。
 目に映った光景をそのままに描写するならば、それは姫を包む大きなシャボン玉であった。一瞬にして出現した、姫を覆う透明な虹色の半球が、暗殺者の剣を易々と阻んだ。そのように見えた。
「……!?」
 振り抜いた刃を予期せず跳ね返されてたたらを踏んだ暗殺者と、前のめりに倒れかけた私は、同時に音なき驚愕の声を上げていた。こんな、刃による一撃すらをも阻むような魔法など未だかつて見たことも聞いた事もない。何が起こったのか全く把握できず、ただ眼前の現象を目を見開いて凝視する中、姫はベッドの上でゆったりと寝返りを打たれ、横向きの体勢になってこちらを向いた。安楽の表情で瞼を閉じたまま、唇のみが緩やかに動き、曖昧なお声が漏れ出てくる。
「んん……あと五分……」
 姫は完全に寝入っておられるようであった。思いもよらぬご発言……否、お寝言?に私はどう反応して良いものか分からず阿呆のように口を開いていた。恐らくは、暗殺者の得た驚愕も同様の物であったと思われる。
 しかし、次なる行動に移る速度には明確な差があった。不本意だが、それはその暗殺者と私の場数の差のなせる技であったのだろう。私よりも先んじて我に返った暗殺者は、短剣を固く握り直した。任務に失敗した暗殺者は逃走か自決を選択するのが普通であるが、その者は、目と鼻の先にある望みに望んだ標的がどうしても諦め切れなかったのか、再度襲撃を敢行した。
「やああっ!」
 破れかぶれな気合の声を発して跳躍し、真上から姫に斬りかかる暗殺者。あっと思うが、やはり今回も私の手は届かない。しかし動けぬ私に代わり、襲撃の声に答えるように、ティファリス様の眉が軽く顰められた。再びむにゃむにゃと唇が動く。
「……あと五分だけでいいですからぁ……! お願いしますぅ……!」
 その声に呼応し、ぺか――と、溢れ出る純白の光。
 ティファリス様を中心として発せられる光は、八方に拡散すると思いきや即座に収斂に転じ、閃光の塊になったと思ったその瞬間に、一条の極太の光線となって真っ直ぐ暗殺者に放たれた。その間一瞬。
 あたかもドラゴンの咆哮の如き熱線は、跳躍したままの暗殺者をぺろりと一飲みに呑み込んだ。
 ……あっ。今じゅわって言った。蒸発した。
 そのまま白光は天井を突き破り、星の彼方に吸い込まれるように消えて行く。すやすや眠る姫と、腰を抜かして最早微動だに出来ない私を鮮やかに放置して。

「……遅かったか」
 どこかで別の敵と交戦していたのであろうか。抜き身の短剣を下げたまま現れたウィンビーン将軍は、ティファリス様のお部屋の凄惨たる光景を目の当たりにするや、嘆息めいた声を漏らした。その声に、姫を案じる色はない。ごく当然の、しかし出来れば起こって欲しくなかった何かを確認したような諦めがあるのみである。
 有機的なナニかが焦げた臭いで既に痕跡すらない襲撃者の存在を把握したのだろう。将軍はいかつい顔を顰め、小さく十字を切ってから私の方を見た。
「姫に余計な心痛を与えたくない。ここで見た事は、決して口外せぬように」
 揺らぎのない将軍の声を耳にしながらも、私の頭の中では様々な疑問や衝撃が駆け巡り、体を震えさせてやまなかったが――
「は、はっ……」
 と、言うしかないという事だけは、混乱しきった頭でも重々分かっていた。


 ――そして朝。
「ふあぁ、よく寝ました。……あら?」
 うーんと心地よさそうに伸びをして、数日振りにお目覚めになったティファリス様は、まず真っ先に、窓からではなく天井の大穴から白々と差す朝日に気付かれたご様子だった。ベッドの上に座ったまま、不思議そうに蒼天を見上げる姫は、やがて小鳥のように小首を傾げられた。と程なく、ベッドから離れた部屋のドア脇で、直立不動で不寝番をしていた私に気づかれて、愛くるしい眼差しをこちらへと向けてこられる。
「おはよう御座います。あの、これは一体どうしたのでしょう……?」
「夜中の内に、賊がやって来たのです」
 何と答えればいいのかさっぱり分からず答えに詰まった私に代わり、返答したのはドアの外からやって来たウィンビーンだった。彼もまた一晩中、廊下で警戒に当たっていたのだ。それにしてもその説明は余り説明になっていないのではなかろうか。普通の賊はやってきても別に天井をぶち抜いたりはしないと思うのだが。
「まあ、何ということでしょう」
 と思ったが、姫はそれで納得されたらしい。姫は暫くぽやんと天井を見上げておられたが、花弁が舞い落ちるように視線を下ろすと、ほっこりとした可憐な微笑みを私たちへと向けた。
「ああ、けれど、こんなに大変な脅威からも、あなた方はティファリスを守って下さったのですね。本当に、ありがとうございます」
 絶対の感謝と信頼を湛えた言葉で惜しげもなく労われ、思わず内心で、えーあーうーと所在なく唸る私であったが、「ありがたき幸せ」と表情を微塵も変えずに頭を垂れたウィンビーン将軍に倣い、慌てて膝をついたのだった……

 カセドリアの至宝。掌中から決して出してはいけない珠。類稀なる美貌と、そしてそのお立場から、口さがない者達にウィンビーンの人形と揶揄されることもあるが、それはもしかしたらウィンビーンら側近達によるある種の配慮の結果なのかもしれない。
 まさに一言で言うなればカセドリアのアイドル――崇拝対象――
 聖女王ティファリス様とはそんなお方である。


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